平成30年の5月2日の神戸新聞に寂聴さんんお憲法第9条に関する記事を拝見した。「命の犠牲が憲法9条に」・「手軽に帰られてはたまらない」というテーマの文章であった。私はかつて偏見からであろうが寂聽さんが好きではなかった。しかし、彼女の語りや文章を読むとさすがに「寂聽」と名付けられた意味がわかる気がする。仏陀に対するあるいは仏教に対する理解が読む・聴く人を納得させるものを持つのである。「寂に」・「仏法を、あるいは不飛びとの心を「聴く」耳を持とう・あるいは持たせようとの名付け者のお気持ちが私なりに理解できる。

 

 「戦争で死んだのは、人間が人間を殺した殺人です」と述べて、東北の津波は「天災」であり、原発事故は「人災」であると明確にわかりやすく区別しながら小学3年生の女の子に語りかけている彼女に私は馬鹿ではあるが感銘を受けた。未来を担う子ども達にそのように語りかける人間でありたい。また、語りかける「力」を持ちたい。それよりも先に語りかけようとする「姿勢」を持つことであろうが。

 

 次に、蓮池透さんが首相発言を批判して、「司令塔? この期に及んで」のネット記事を読んで、アメリカ頼りで自らは身体を張ろうとしない、責任を自らの行動で果たそうとしない形ばかりの安倍首相の対応にあきれ果てます。

 

 「志」やら「気概」やらの言葉を復活させたいものです。混乱したかつての中国で「諸子百家」が登場した。わが国もここまで思想的に没落すれば、そろそろ日本版「諸子百家」の登場を期待せざるを得ないかも。

 

 ご機嫌よろしゅう。