Myaskovsky Symphony No.21
Nikolai Myaskovsky Symphony No.21 (1940)
Siberian Symphony Orchestra (Omsk Philharmonic), Dmitry Vasiliev
Омский Академический Симфонический
Оркестр Omsk Philharmonic Concert Hall, 24.05.2017
ある友人が、上司に対して良い感情持っていなったのですが、ある時下を向きながら帰って来て「ハイって返事したからと言ったって、それはあくまで返事をしただけで、精神的な去勢なんかされてたまるか。何でも思うようになるなんて思うんじゃねえ」と吐き捨てるように言った言葉を今でも覚えています。
最近は、パワハラ、モラハラ、セクハラ何でもかんでもハラスメントにやかましいですが、世界のあちこちでは言論統制、政府批判の取り締まりなどはざらです。言わずもがな、日本であってもいわゆる「声高の人達」はマスコミはおろか、街頭などで平気でヘイトスピーチまたはそれに準じた行動を平気で起こします。そうした国での芸術家たちは苦しい思いを背負わなければなりません。ミャスコフスキーもまたその一人でした。
ニコライ・ヤコヴレヴィチ・ミャスコフスキー( Nikolai Yakovlevich Myaskovskii, 1881年4月20日(ユリウス暦では4月8日) - 1950年8月8日)は、ロシアの作曲家です。ベートーヴェン以降の作曲家として27曲もの交響曲を作曲したことでしられています。これらの作品は最近まであまり知られていませんが、近年再評価が進んでいます。
軍人の家庭に生まれましたが、幼少期より楽才を見せていたことから音楽の道に進むことを勧められていましたが、その夢がかなったのは軍人を退役してからでした。1906年にペテルブルク音楽院に進みますが、そこでプロコフィエフと同級となり、生涯にわたって親交を結びました。
若い頃は実験的な作品も見られましたが、1933年以降の数年間は、そうした傾向から後退が見られています。これは、この時期にスターリンの全体主義体制の下、「社会主義リアリズム」が国家の公式な芸術政策の方針として推進されたことと大きくかかわっています。それでありながら、職人的な技術の見事さはそれ以降も変わっていません。この時期よりミャスコフスキーは、堅実な技法に支えられて新ロマン主義に軸を切ります。オイストラフに献呈された「ヴァイオリン協奏曲」はこの頃の作品です。このほかに、ロストロポーヴィチが好んで演奏した「チェロ協奏曲」を作曲していて、「抒情的小協奏曲」作品32を協奏曲とするならば3曲の協奏曲を作曲したことになります。
この時期に作曲された妥協のない作品と言われている単一楽章の「交響曲 第21番 嬰ヘ短調」作品51は1940年に作曲され、同年モートン・グールドの指揮によって録音されています。これは簡潔でありながら叙情的な作品で、1920年代とは大きくかけ離れた和声処理がなされ、濃密な時間を描き出しています。
※ 今日のミュージック・ダイヤリー
1881年4月20日(ユリウス暦4月8日) - ニコライ・ミャスコフスキー誕生、作曲家(+ 1950年)
1643年4月20日 - クリストフ・デマンティウス没、作曲家(* 1567年)
2001年4月20日 - ジュゼッペ・シノーポリ没、指揮者(* 1946年)
Complete Symphonies: Svetlanov / Russian Federation Academic SO.(16CD)