Schubert: Die Winterreise D. 911 / Fischer Dieskau & Brendel
00:20 1. Gute Nacht
05:43 2. Die Wetterfahne
07:33 3. Gefror'ne Tränen
09:56 4. Erstarrung
12:46 5. Der Lindenbaum
17:38 6. Wasserflut
21:36 7. Auf dem Flusse
25:01 8. Rückblick
27:22 9. Irrlicht
29:46 10. Rast
32:53 11. Frühlingstraum
37:05 12. Einsamkeit
39:40 13. Die Post
41:56 14. Der greise Kopf
45:04 15. Die Krähe
47:24 16. Letzte Hoffnung
49:26 17. Im Dorfe
53:03 18. Der stürmische Morgen
53:56 19. Täuschung
55:32 20. Der Wegweiser
59:40 21. Das Wirtshaus
1:04:06 22. Mut
1:05:32 23. Die Nebensonnen
1:08:19 24. Der Leiermann
私のおぼろな記憶では、中学の音楽の教科書には「菩提樹」が掲載されていて、歌唱教材に指定されていたのではないかと思います。兄に送ってもらった最初のレコードもシューベルト歌曲が入っているいわゆるオムニバスで、演奏は伴奏がジェラルド・ムーアとフィッシャー・ディスカウという黄金コンビでした。ディスカウは、他にも名だたる人物と組んだ多くの録音を残しています。
歌曲集「冬の旅」は1827年に完成されています。次の年にシューベルトは亡くなっていますから正に晩年の作品です。シューベルトは、1823年に体調を崩し入院してからは、健康状態はあまり改善していませんでした。友人たちとの交流や時折旅行できたことは嬉しいものでしたが、経済的にも困窮したままで、性格も暗くなり、次第に死について考えるようになります。若い頃から、家族の死を多く経験したことから、死に対する意識は病気以前からあったようです。
この詩を選んだことも、友人の一人は「冬の旅」の詩を選んだことを「長い間の病気で彼にとっての冬が始まっていたのだ」と回想しているのですが、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウはこれについて「原因と結果を混同している」と言っています。このことはもう一つの言葉によって、ディスカウのこの歌曲に対する向き合い方を私たちに示してくれています。
「演奏家はリーダーアーベント(歌曲の夕べ)に審議的喜びだけを期待する聴衆に配慮せず、この曲が正しく演奏された時に呼び起こす凍り付くような印象を与えることを怖れてはいけない」
シューベルトのもう一つのあだ名は「泣き虫シューベルト」と言うのでしたが、ひょっとすると努力してもなかなか認めてもらえない歯がゆさだけではなく、本心から恐怖におびえるようなことがあったのかもしれません。
1823年に作曲された「美しき水車小屋の娘」と同じく、ドイツの詩人ヴィルヘルム・ミュラーの詩集による。2部に分かれた24の歌曲からなる。『水車小屋』が徒弟修行としての「さすらい」をテーマにし、徒弟の若者の旅立ちから粉屋の娘との出会い、恋と失恋、そして自殺を描いた古典的な時代背景を元にした作品だったのに対し、『冬の旅』では若者は最初から失恋した状態にあり、詳しい状況は語られないが街を捨ててさすらいの旅を続けていくという内容であり、産業革命による都市への人口集中が始まったことで「社会からの疎外」という近代的意識を背景にしている。唯一の慰めである「死」を求めながらも旅を続ける若者の姿は現代を生きる人々にとっても強く訴えかけるものがあるとされ、一般に彼の3大歌曲集とされる当作品及び『美しき水車小屋の娘』、『白鳥の歌』の中でも、ひときわ人気が高い。
確かに産業革命は一般大衆に夢や力を与えた部分もあるかも知れませんが、この時代はまだ貴族や豪商や豪農がが全て力を失った訳でありません。「社会からの疎外」という言葉は、実生活の中にあったのです。そんな中にあって健康を失い、作品が認められない絶望感と貧困は否が応にも彼を苦しめていました。
全24曲の内16曲が短調で書かれていて、全体的に暗く絶望的な雰囲気に満ちた音楽の中で時折現れる長調の曲は幻想か或は慰めか、全24曲を通して甘い感傷が湧いてくることはありません。
第1部 Erste Abteilung
1. おやすみ Gute Nacht冬の夜、失恋した若者は、恋人の住んでいる町から去っていく。若者は恋人とすごした春の回想にふけるが、今は冷たい雪に覆われた冬。若者は自分がただのよそ者であると感じ、あてもない旅に出ようとする。恋人の家の扉に「おやすみ」と書き残し、旅に出る。
「冬の旅」全曲の序曲ともいうべき曲。この若者が出ていくのは、恋人の住んでいる家からなのか、恋人が住んでいる家の前を通った時に「おやすみ」と記したのか、という点について、評論家の梅津時比古は、通りかかった時では長調に転調してからの「君の眠りを妨げないように/そっと、そっと扉を閉めよう」の意味がわからなくなるため、恋人の住む家から出ていく、と解釈している。
2. 風見の旗 Die Wetterfahne
恋人の家の風見の旗が揺れている。風に翻る旗に恋人の嘲笑が重なり、全ての破局の原因は恋人の不実に満ちた裏切りにあったことに今更ながら気付く
恋人の家の風見の旗が揺れている。風に翻る旗に恋人の嘲笑が重なり、全ての破局の原因は恋人の不実に満ちた裏切りにあったことに今更ながら気付く。
3. 凍った涙 Gefrorne Tränen
涙が頬を伝わり、自分が泣いていることに気づき、心情を歌う。
4. 氷結 Erstarrung
泣きながら恋人への思いを爆発させる。涙で冬の冷たい氷を全て溶かしたいと歌う。この歌曲集で最も歌詞の繰り返しが多く、繰り返しの構造の中で一つの詩節が次の詩節と融合してクライマックスと向かっていく様を、ジェラルド・ムーアは著書の中で「建築の奇跡」と呼んだ。
5. 菩提樹 Der Lindenbaum
菩提樹の前を通り過ぎる。かつて若者はこの木陰でいつも甘い思い出にふけっていた。枝の不気味なざわつきが、若者を誘う。場所を離れ何時間経ってもまだざわつきが耳から離れない。
本歌曲集のみならず、シューベルトの歌曲の中でも特に有名なものであり、ホ長調の甘い旋律は自治体の放送にも使われる。
イギリスのシューベルト研究家であるリチャード・キャペルは、「ほとんど歌えないほど美しい」と述べている。
6. 溢れる涙(7) Wasserflut
自分の涙が雪に落ちて雪と小川に流れていったら、自分の思いのように恋人の家まで届いてゆくだろうと歌う。
右手の3連符と左手の付点音符のリズムを一致させるべきか否かについて、ドイツのベーレンライター原典版の注釈には、一致させるべき、とあるが、一致させずに演奏する演奏者も少なくない。ジェラルド・ムーアは著書の中でデスモンド・ショウ=テイラーの「遅れがちな16分音符は旅人の疲れた重たい足取りを象徴している」との指摘を引用しており、本人も譜面通りに一致させずに弾くべきと主張している。
7. 川の上で(8) Auf dem Flusse
凍った小川に、恋人の名前と出会った日付と別れた日付を刻む。孤独な作業をしながらも、この川の下を激しく流れる水のように、自分の心は燃えている。
8. 回想(9) Rückblick
何かに追われるように、町から逃げていく。しかし、しばらくすると恋人への感情が湧き、町へ戻りたい思いにかられる。
9. 鬼火(18) Irrlicht
原題の "Irrlicht" の直訳は「狂った火」。鬼火に誘われ若者は歩いていこうとする。喜びも悲しみも、鬼火のようにはかないものだと想う。詩の内容は鬼火自体よりも、むしろそれを追って辿り着いた岩に囲まれた深い渓谷に旅人が不安を抱くこと無く、「道に迷うことに慣れた」様子を語っている。この曲から、具体的な失恋につながる描写は極端に少なくなり、主人公に狂気が漂い始める。:
10. 休息(19) Rast
小屋で休息を取る。しかし体の痛みは消えず、さすらいが自分にとって安らぎなのだと気づく。
11. 春の夢(21) Frühlingstraum
美しい花に彩られた春の夢を見る。しかし目が覚め、冷たい現実に引き戻されると、旅人は絶望的な思いで嘆く。
「冬の旅」全曲中、「菩提樹」に次いで有名な曲。楽しげな春の夢は、雄鶏の時を作る声で遮断される。この、雄鶏の時を作る声の描写が3度あることから、梅津時比古は、聖書の「ペテロの否認」の場面との関連を指摘している。
12. 孤独(22) Einsamkeit
嵐が去り、明るい日差しの中で旅人はむしろ穏やかで光り輝く世界から自分がのけ者にされていることを自覚する。
第2部 Zweite Abteilung
13. 郵便馬車(6) Die Post
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町の通りから、郵便馬車のラッパが聞こえてくる。恋人からの手紙などあるはずがないのに、なぜ心が興奮するのだ、と自問する。
14. 霜おく頭(10) Der greise Kopf
霜が自分の頭にかかり、頭が白くなる。老人になり死が近くなったようだと喜ぶ。しかし霜は溶けて、死まではなんと遠いのだろうと嘆く。
この曲の特徴である長い上行と下行の流れについて、ジェラルド・ムーアは著書の中で最後のフレーズ(「夕焼けから夜明けまでにたくさんの人が白髪になった」)に答えがあると主張、「長い、痛みのうずく緊張が意味するものは、哀れな友が耐えている不断の苦悩、果てしない夜の特徴であることがそこで分かる」と指摘している。
15. 烏(11) Die Krähe
不気味な烏が町からついてくる。もう僕の死は遠くないだろう、いっそ墓までついて来い、とほのめかす。
シューベルトの伴奏の上声では例外的なこの曲の高音域の使用について、ジェラルド・ムーアは著書の中で「彼の慈愛のピアノの音が歌と溶け合う時、望んだような音質が欠けていた嫌な音だった」可能性を指摘し、その理由のためにこの曲の凄惨なムードを高めるために敢えて使用されたと説明を試みている[4]。
16. 最後の希望(12) Letzte Hoffnung
枝にわずかにぶらさがっている枯葉を、自分の希望にたとえる。しかし枯葉は飛ばされ、希望はついえた。
17. 村にて(13) Im Dorfe
夜明けに村にたどり着く。人々は心地よい眠りにつき、聞こえるのは犬の遠吠えと鎖の音。自分にはもう希望もなく、この人々とは違うのだ、と孤独を感じて終わってしまう。
中間部で、ジョヴァンニ・パイジエッロのオペラ『美しき水車小屋の娘』(La bella Morinala)のアリア「もはや私の心には感じない(うつろな心)」(Nel cor più non mi sento)が引用されている。この引用については、オペラの分野で成功しなかったシューベルトの皮肉、あるいはビーダーマイヤー期の、小市民的なウィーン人の生き方への揶揄など、様々な説がある。
18. 嵐の朝(14) Der stürmische Morgen
激しい嵐に自分のすさんだ心を感じ、激しく歌う。
全曲中、最も短い曲で、多くの録音では1分もかかっていない。
19. まぼろし(15) Täuschung
若者をまぼろしが襲う。光が楽しく踊っている。もはやこのまぼろしが自分の安らぎなのだと歌う。
20. 道しるべ(16) Der Wegweiser
町へ続く道しるべを見つけるが、それを避け人の通らない道を行こうとする。若者は死を目指している。
詩の最後に出てくる "Die noch keiner ging zurück." (「誰も帰ってきたことのない道」の意)とは、墓場へ通ずる道のこと。ジェラルド・ムーアは著書の中で、この曲の前奏の「歩み」が第5小節の主和音で阻まれる問題点を指摘、シューベルトに対する「不敬罪」ではあるが、と断りを入れた上で第5小節を削除する提案を行っている。
21. 宿屋(17) Das Wirtshaus
若者は墓場にたどり着く。安らかに眠る死者と出会い、自分も死を願うが死ぬことはできない。墓場からも拒否された旅人は旅杖を手にさらに旅を続ける決心をする。この曲の後奏部にシューベルトはデュナーミクの指示を書いておらず、伝統的にデクレッシェンドが行われてきたが、近年は逆にクレッシェンドをかけて次の曲に繋げる演奏家もいる。
ジェラルド・ムーアは著書の中で「メンデルスゾーンが作ったものと言われても不思議では無い、伝統的な性格を備えた、この歌曲集で最も目立たない曲。しかし心の底を揺さぶられるような歌である」と評している。
22. 勇気(23) Mut
自然の力を前に最後の力を振り絞り、力強く生きる勇気を出そうとする。ジェラルド・ムーアがこの曲の激しさと快活さを「主人公の途方も無い元気」の証として捉えていたように、以前はこの詩が文字通りの意味で解釈されていたが、近年はしかし繰り返される転調がもはや壊れた心と叫びのむなしさを表しているという解釈が生まれ、表題も『から元気』と訳されるケースが出てきている。
23. 幻の太陽(20) Die Nebensonnen
若者には3つの太陽が見える。そのうち2つは沈んでしまったと歌う。原題の "Nebensonnen" は日本で「幻日」と呼ばれる自然現象のことで、左右両側に幻日が現れると、太陽は3つとなる。しかし、気象条件が変化すると左右2つの幻日は消えてしまう。ただし、ジェラルド・ムーアが著書の中で想定しているとおり、自然現象よりも「比喩」としての意味が大きい。音楽学者 A. H. フォックス・ストラングウェイズは「3つの太陽によって『誠実、希望、生命』が表され、その内の二つである誠実と希望が消え、旅人はもはや生命も失っていいと考えている」と説明している。
邦題は『3つの太陽』や『幻日』と訳されることもある。
24. 辻音楽師 Der Leiermann
『ライアー回し』と訳されることも多い。村はずれで1人の年老いた辻音楽師と出会う。虚ろな眼で、ライアー(ハーディ・ガーディ)(手回しオルガン)を凍える指で懸命に回している。聴く者もなく、銭入れの皿も空のまま。しかし周りに関心を示さず、ただ自分ができることを、いつまでも続けている。若者は自分と同じく世界の全てに拒絶されるという境遇に置かれた孤独な人間と出会い、僅かな希望を見出す。『老人よ、お前についていこうか、僕の歌に合わせてライアーを回してくれるかい?』という問いかけで全曲を閉じる。
この作品には、空虚五度が、繰り返し演奏される伴奏はライアーの描写だとする説がありますが、私もそう思います。また、レツィタティーフ(レチタティーヴォ)様式の歌は旅人の独り言でしょう。つまり、シューベルトは孤独に死に向かっていく者の心を凝視しているです。
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、「語らないことによって多くを語る音楽である」と解説している。またフィッシャー=ディースカウはこれに関連して、「これに類似する音楽は、世界中を探しても、恐らく日本の能楽以外にはないのではないか」と述べている。ジェラルド・ムーアは「この曲の偉大さを認めながらもその理由を説明することができないという点において奇跡であり、シューベルトの魔術の最高例」と評している。リチャード・カペルは「何度考えても、最後の歌がこのようなものであろうとは誰も考えなかったであろう」と語っている。
※ 参考資料 Wikipedia他
今日は、少し辛い日ですが、気持ちをしっかり持って聴くことはこれからの貴方の演奏活動に無駄にはなりません。
(株)全音楽譜出版社
フィッシャー=ディースカウ(ディートリヒ)ジェラルド・ムーア (アーティスト), & 2 その他 形式: CD