ヨハンシュトラウス3世「ウンター・デン・リンデン」「戴冠式のワルツ」 | 翡翠の千夜千曲

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Unter den Linden, Walzer, Op. 30 - Johann Strauss III

 

Johann Strauss III (1864-1939) : Coronation Walzer Op. 40 (1902)

 

 

 

 

 シュトラウス3世と聞いて、「え、そんな人いるの」と貴方は驚きませんか?知っているとすれば、あなたは相当な情報通か、相当なご高齢かもしれません。

 よその家の家系図など覗くのは結構な悪趣味ですが、墓場荒らしよりは良いかと自分に言い聞かせて進みましょう。シュトラウス3世とは、エドゥアルト・シュトラウス1世の長男のことです。また、ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世とヨーゼフ・シュトラウスの甥、ヨハン・シュトラウス1世の孫、エドゥアルト・シュトラウス2世の伯父と言うことになります。シュトラウス家の系図

 シュトラウス3世の出世作とも言える「菩提樹の下で」には次のような話があります。

 「菩提樹の下で」、エドゥアルト・シュトラウス2人の息子の長男ヨハン3世は、1900年3月23日に友人に宛てた手紙で、「今、私はベルリンのためにワルツを書き、それを「ウンター・デン・リンデン」と呼ぶつもりです。不思議なことに、このタイトルはまだ使われていません」。

 ヨハンは1900年にドイツとオランダを11ヶ月かけて旅行し、3月26日にベルリンでデビューした。 1900年6月2日、クロールの新オペラ座で行われた「ワルツの夕べ」で、彼と彼のウィーン管弦楽団がこのワルツを初演し、ベルリンの並木道のメインストリートの美しさを称賛したようです。ウィーンの聴衆は、1900年11月2日に「ゴールデン・クロイツ」ホテルで行われたシュトラウスの第4回グランド・コンサートで、心に残るワルツ・セクションを持つこの作品を初めて聴きました。

 さて、そのヨハン・シュトラウス3世(Johann Strauss III. (Enkel), 1866年2月16日 - 1939年1月9日)は、オーストリアのウィーンおよびドイツのベルリンを中心に活動した指揮者で作曲家です。

 しかし彼の経歴は少しばかり変わっています。幼少の頃から、素養的な音楽は学んでいますが、長じてからはウィーン大学でわずかな期間だけ法律を学んで退学した後、オーストリア帝国文部省に会計士として勤めています。それなりの昇進はしたようですが、シュトラウス家に生まれたヨハン3世は、実は音楽家としての生活に大きな夢は持っていたのです。門前小僧は習わぬ経を読めるという訳です。

 1,900年以降、当初は主に作曲家として活動しています。作品は、ワルツ「世界は勇者のもの」(作品25)や「戴冠式のワルツ」(作品40)などが知られていますが、シュトラウス一家の中では最後の作曲家と言うことになります。最も子孫はいるようですから、今後作曲家が出てこないとは言えません。

 しかし、毎年元日に開かれるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるニューイヤーコンサートは、ヨハン・シュトラウス一族の楽曲を主として演奏することで知られていますが、これまでにヨハン3世の楽曲が演奏されたことはありません。父のエドゥアルトも父や兄たちに比べて同コンサートへの作品の登場が遅く、シュトラウス1世とワルツ合戦でしのぎを削ったヨーゼフ・ランナーの作品よりも遅く、1964年にようやく取り上げられています。

 1898年に彼は、三幕物のオペレッタ「猫と鼠」の作曲に取り掛かり、12月23日に上演されますが、台本の評判はすこぶる評判になったものの、音楽への評価はまちまちでした。当時の批評家は次のようなことを書いています。

 筋はもっと早く進めることが必要だ。長ったらしい歌があれやこれや、しょっちゅう出てきて、いつも中断され、いっこうにはかどらない。……作曲者は親の七光りを背負っているのだから、デビュー前に、もっとしっかり自覚を持たなければならないとか、客席ではいろいろきびしい声が聞かれた。この名前で売る商品は、羊頭狗肉であってはならないのだとも。もしシュトラウス氏が、血迷って、自分には大変な才能があると思い込んでいるとしても、まずは偽名でつつましやかに登場したほうが奥ゆかしくはなかったか。彼が本当に世に認められるか見極めをつけるためにも……。

 ともあれ、シュトラウス3世の作曲家生活はスタートし、それなりの評価を得て冒頭の1900年の話になるわけです。それ以降は、あちらこちらから演奏の依頼や作曲の依頼が入りますが、折も折、イギリス国王エドワード7世の戴冠式のため、楽団を引き連れてロンドンに渡り、コンサートと夕食会に出る契約が舞い込みます。こうして「戴冠式のワルツ」(作品40)が生まれ、国王夫妻に献呈しましたが、国王の急病により戴冠式は延期されてしまいます。当然、式典参加も中止になりシュトラウス3世は大赤字を出してしまいます。これを最後にヨハン3世は作曲をやめ、指揮者としての活動に専念することになるのです。

 その後、1939年1月9日、ヨハン3世はベルリンにおいて72歳で死去しました。ヨハン3世がデビューした際に批判記事を載せた「ノイエ・フライエ・プレッセ」に、1939年1月16日付の死亡記事を掲げ、次のように故人を称賛した記事を掲載しました。

 彼とともに、ウィーン音楽を代表する使節は死んだ。彼は偉大さの証拠である謙虚さで、彼自身の創作的野心を措いて、偉大な先祖たちの作品に奉仕し、シュトラウスの音楽の指揮者として、世界に喜びと高揚とウィーンの霊感を与えた。

 

 

ヴィエナ・プリミエール

ジャック・ロススタイン 、 ヨハン・シュトラウス・オーケストラ

構成数 | 3枚

合計収録時間 | 03:02:00

録音 | ステレオ (---)

『ヴィエナ・プリミエール』
【曲目】
シュトラウスI世:
 自由行進曲 Op.226
 ギャロップ《パリの謝肉祭》Op.100
シュトラウスII世:
 ワルツ《競争》Op.267
 ポルカ《見知らぬ女》Op.182
 新しいチャルダッシュ(喜歌劇《こうもり》より)
 行進曲《オーストリア万歳》Op.371
 ポルカ《アレキサンドリーナ》Op.198
 ポルカ《パパコーダ》Op.412
 愉快な戦争のカドリーユ Op.402
 ワルツ《かわいいグレーテル》Op.462
 ポルカ《まあ、つべこべ言わずに》Op.672
シュトラウスIII世:
 シュラオ=シュラオ Op.6、ワルツ《ウンター・デン・リンデン》Op.30
エドゥアルト・シュトラウス:
 直ちに Op.132
 ワルツ《螢》Op.161
 ヘクトグラフ Op.186
 ヨハン・シュトラウスの花冠 Op.292
 ザーッ・ウント・エルンテ Op.159
 ヴァイプレヒト=パイアー行進曲 Op.120
 メッチェンラオネ Op.99
 ワルツ《アボンネンテン》Op.116
 エステライヒ・フェルカー・トロイ・マルシュ Op.211
 青い眼 Op.254
 ヴェールと王冠 Op.200
ヨーゼフ・シュトラウス:
 ワルツ《楽しい生活》Op.272
 ポルカ《前へ!》Op.127
 ポルカ・マズルカ《夜の陰影》Op.229
 ポルカ《妖精》Op.74
 ポルカ《永遠に》Op.193
 分列行進 Op.53
 ポルカ《フェアウェル!》Op.211
 ワロン人の行進 Op.41
 パウリーネ Op.190b
 ワルツ《過ぎ去りし思い出》Op.51
ミレッカー:
 行進曲《ジーベン・シュヴァーベン》
 ヨナタン行進曲
 フランス風ポルカ《Klopf'an!》
ツィーラー:
 カシミール・ワルツ Op.551
 ルスティヒマシェリン Op.4
ファールバッハII世:
 ゲラニウム(風露草)
【演奏】
マリリン・ヒル・スミス(ソプラノ)
ジャック・ロススタイン(指揮)、ヨハン・シュトラウス管弦楽団
【録音】
1983年-1992年