ホルンの出番です260 ヨハネス・アモン「ホルン四重奏」 | 翡翠の千夜千曲

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        Johann Andreas Amon Quartet Nr. 1 Op. 20

Vicente Zarzo - Horn Chiara Bianchini - Violin G. Oldeman - Viola H. Ruysenaars - Cello I. Allegro moderato 

II. Adagio 0:05:30 

III. Rondo 0:09:12

 

 

 

 

 ヨハネス・アモン(Johannes Amon, 176年8月24日  - 1825年3月29日)は、ドイツの作曲家で、後に音楽出版社の経営にも携わります。例えば、ウィキペディアには古典派の作曲家としての記録には載っていません。年代的にはダンツイと同じ年の生まれで、ベートーヴェンより7歳年上になります。
 ヨハネス・アモンは、ギターやヴァイオリン、ホルンなども学び奏者としても能力が高かったようです。自分自身をジョヴァンニ・プント(ヤン・ヴァーツラフ・シュティッヒ)の弟子と言っていました。1781年に彼はパリに旅行し、そこでアントニオ・ロゼッティなどにも会っています。その頃、彼はアントニオ・サッキーニから作曲のレッスンを受けたと言われています。 

 パリに滞在した後、彼はプントとのコンサートツアーに行き、1784年にストラスブールでイグナズプレイエルに会いました。1789年、アモンはハイルブロンで市の音楽監督としての仕事に就くことができ、28年間務めました。演奏旅行先では、彼は作曲家のライヒャルト、ヴァンハル、ハイドン、モーツァルト、フランツアントン・ホフマイスターなど、数多くの有名な芸術家に会っています。その後、ホフマイスターの提案で、アモンは1791年に音楽出版社を設立し、主に知人のサークル(ヨハン・ブランドルなど)の作品を出版しました。フィガロの結婚の24の声楽パートやモーツァルトのドイツ舞曲K.571の最初の出版など、初期の出版で最も人気のあるウィーンの古典も出版しています。 

 1817年、アモンはエッティンゲン・ヴァラーシュタイン王子と共にカペルマイスターとしての地位に就きました。その間に出版作品の数を約300のカタログ番号を数えるほどに成長した会社を、マインツのSchottとボンのSimrockの出版社に売却しました。
 アモンは主に裕福な人物からの注文で音楽を書いていたようです。ハイドンのような複雑な動機のをもった形式や、当時の一般的な形式的で難しい音楽は見られません。彼の作品には、すべてのジャンルと楽器形式が含まれ、教会音楽、カンタータ、交響曲、そして単純なダンスや歌に至るまで、室内楽の広範な作品を書きました。同時代の人々はアモンを「聴衆はプレイエルの再来を思い起こさせます」または「...しかし、彼の作品は多くの人に喜び、楽しく、有用な娯楽をもたらしました」と言わしめています。確かに何となくホッとする音楽ではあります。

 ご承知のように、プレイエルもまた人気作曲家でありながら、出版業で成功しベートーヴェンをはじめとする当時の著名な作曲家の作品を多く出版しています。アマチュアはアマチュアなりに、構造のはっきりした芸術的な音楽だけでは肩が凝るから息抜きのような音楽もまた楽しからずや!・・・そんなこと言ったらアモンに叱られるでしょうか。「アッもん、失礼」

 

<演奏者>ホルン

 ビセンテ・ザルゾは、バルセロナ大劇場シンフォニカ、アイスランド交響楽団、ピッツバーグのアメリカ風交響楽団、メキシコ国立管弦楽団、オランダのハーグのレジデンティオーケストで25年間、プリンシパルホルンを務めてきました。彼はメキシコ大学、アムステルダム音楽院、ハーグ王立音楽院、スイスのモントルーにある音楽院でホルンとナチュラルホルンの教授を務めてきました。 ビセンテ・サルソは、バレンシア王立芸術アカデミー、バルセロナのリセオ・スペリセオ音楽院、バレアレス諸島音楽舞踊音楽院(マヨルカ島パルマ)の客員教授を務めました。

 

 

 

Amon - 3 Quartets for Horn & Strings, Op.20

 

Digital Sheet Music By Johann Andreas Amon

 

Leopold Mozart, Franz Anton Rössler, Johann Andreas Amon, Hermann Baumann, Concerto Amsterdam, Jaap Schröder – Horn • Cor