コープランド/バレエ音楽「ビリー・ザ・キッド」 | 翡翠の千夜千曲

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                    DYAO: Aaron Copland - Billy the Kid Suite

Performed Live on October 11, 2015 June Swaner Gates Concert Hall Audio, video recording mixing and editing: Michael Quam

 

 

 

 

 コープランドでポピュラーな曲として、吹奏楽をかじったことのある人なら、「エル・サロン・メヒコ」(El Salón México)を演奏したり聞いたりしたことがあるでしょう。3つのバレエ音楽、「ロデオ」「ビリー・ザ・キッド」「アパラチアの春」、ベニ―・グットマンから依頼された「クラリネット協奏曲」や「市民のためのファンファーレ」などの曲で知られています。

 今日は、バレエ曲の中から「ビリー・ザ・キッド」を聴いてみたいと思います。アメリカン・バレエ・キャラヴァンの主宰者リンカーン・カースティンの依頼で1938年に作曲されています。バレエ版の初演が1938年10月、シカゴのオペラハウスで演奏され、その後ウィリアム・スタインバーグ指揮NBC交響楽団により組曲版の初演が行われました。

 ビリー・ザ・キッドの名前はどこかで聞いたことがありますか?。実在の人物です。物語や映画にもなりました。年配の人は大体知っています。かつては西部劇がはやった時代があって、その主流は当然アメリカです。ところが、そのうちに「マカロニ・ウエスターン」なんて言葉が作られました。西部劇はアメリカでは、日本の「時代劇」みたいなものです。人気があるものだから、そうこうするうちに今度はイタリアでも西部劇を作ってしまったのです。イタリアにはエンニオ・モリコーネと言う偉大な作曲家もいましたからね。1965年セルジオ・レオーネ監督の「荒野の用心棒」が日本で公開されるときに「スパゲッティ・ウエスタン」のサブタイトルがついていたようですが、スパゲッティでは細くて頼りないと言うので、マカロニにしたらしいです。この言葉日本で生まれた造語のようです。

 おっと又脱線してしまいました。伝説のならず者は、西部開拓時代のアウトロー、ビリー・ザ・キッド(1859年 - 1881年)で、その生涯を音楽で描いているのです。半ば伝説化したエピソードが多く、歴史的事実とは違っているところが多くあります。

序奏:涯しない大平原(Introduction - The open Prairie)
3/4拍子の、ゆるやかで荘厳な音楽により舞台の幕が開く。19世紀後半、アメリカ西部劇時代のプレーリーである。
開拓者の町の踊り(Street in a Frontier Town - Mexican Dance and Finale)
開拓者の町の様子が描かれる。6つの曲が接続曲的に演奏される。テンポの速い5/8拍子の部分はメキシコ娘の踊りである。
町にやってきた12歳のビリーは、ならず者によって殺された母親の仇を討ち、アウトローとしての人生を歩み始めた。
夜のカルタ遊び(Prairie Night (Card game at night))
星空の下、ビリーと仲間たちが静かにトランプに興じている。変イ長調のノクターンである。弱音器をつけた弦楽器を背景にトランペットのソロが旋律を歌う。
拳銃の戦い(Gun battle)
ビリーのかつての友人であった保安官パット・ギャレットが率いる捜査隊との激しい銃の打ち合い。
ピアノが打楽器的に用いられ、ティンパニや低音楽器と共に銃声を表現する。
ビリー逮捕後の祝賀会(Celebration (after Billy's caputure))
関係者が祝杯をあげる。嬰ハ長調のベースラインの上にハ長調の旋律が奏でられるなど、複調の手法が用いられている。
ビリーは牢獄につながれるが、"伝説的な"脱獄に成功し逃亡する。
ビリーの死(Billy's Death)
逃避行の途中、砂漠で休んでいたビリーはパット・ギャレットに発見され銃殺される。音楽は弦楽器中心のト長調の美しいコラールである。
再び、涯しない大平原(The Open Prairie again)
大平原に始まった物語は大平原に終わる。

 遅ればせながら、アーロン・コープランドについて少し書いておきましょう。アーロン・コープランド(Aaron Copland, 1900年 - 1990年)は、20世紀アメリカを代表する作曲家のひとりです。アメリカの古謡を取り入れた、親しみやすく明快な曲調で「アメリカ音楽」を作り上げた作曲家として知られています。指揮や著述、音楽評論にも実績を残しました。

 アメリカには、ナディア・ブーランジェの弟子が数多くいますが、コープランドは1921年、21歳のときにパリに留学し、個人的にナディア・ブーランジェの弟子となっています。その前16歳からルービン・ゴールドマーク(オーストリアの作曲家カール・ゴルトマルクの甥)に作曲を師事しています。ニューヨーク州ブルックリンにおいて、ユダヤ系ロシア移民の息子として生まれ、14歳で本格的にピアノを習い始め、作曲家を志したのは15歳のときといいます。パリ時代にはジャズ的な作品を書いていたようですが、次第に一般聴衆との距離感を感じ始めていました。 

 1924年に帰国すると、「アメリカ的」音楽を模索、アメリカ民謡を取材・研究し、これを取り入れた簡明な作風を打ち立てる。出世作『エル・サロン・メヒコ』(1936年)を経て発表された、『ビリー・ザ・キッド』(1938年)、『ロデオ』(1942年)、『アパラチアの春』(1944年)などのバレエ音楽が、コープランドのスタイルとして確立された作品といえる。

 ご存知のように、アメリカは多くの移民から成り立っています。各々が、自分たちのアイデンテティを求め独自の文化を保とうとする動きと同時に、同じアメリカに住む人間としての共通項をも求めています。現代版「ロミオとジュリエット」として描かれた「ウエスト・サイドストーリー」は、かつてのニューヨークの社会的背景を織り込んで、ポーランド系アメリカ人とプエルトリコ系アメリカ人の、2つの少年非行グループの抗争の犠牲となる若い男女の2日間の恋と死を描いていました。

 考えれば、言わばアメリカではどちらも主流ではないのです。つまりはぐれもの同士が争うという歪曲した社会現象とも言うべきもので、それは今でも形を変えてアメリカという国の分断を見せています。これは、いずれ日本にも起きうる話です。アーロン・コープランドは、そうしたアメリカに何かしらの共通項になる音楽を目指していたのかもしれません。

 

コープランド:組曲「ビリー・ザ・キッド」/交響曲第3番

ロンドン交響楽団 (アーティスト), アーロン・コープランド (作曲, 指揮)  Format: Audio CD