フルートの出番です159 シュターミッツ「ロンド・カプリチオ―ソ」 | 翡翠の千夜千曲

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   Johann Anton Stamitz. Rondo-Capriccioso G-Dur Mikhail Khvostikov (flute)

 

 

 

 

 天気情報では、台風は温帯低気圧に変わったと言っていますが、それでもあちらこちらに被害をもたらしていて毎年のことながら、気が抜けません。今日は、シュターミッツのロンド・カプリチオ―ソを聴きます。小品ながら楽しめる作品になっています。アントン・シュターミッツ(Johann Anton Stamitz, 1754年 - 没年不明)は、チェコ系ドイツ人作曲家でヴァイオリニストでした。

 兄カールとともに、父ヨハンから音楽教育を受ける。父親が早世してからは、兄弟はクリスティアン・カンナビヒにさらに指導を受ける。シュターミッツ兄弟は若くして、マンハイム宮廷楽団においてヴァイオリニストとして頭角をあらわす。  

 1770年、兄カールとともにパリを訪れるがアントンは同地に居を構え、1782年から1789年までヴェルサイユ宮殿において演奏し、フランス王室演奏家の称号を獲得した。ヴァイオリンの門人にロドルフ・クロイツェルがいる。1798年以降は消息不明であるが、おそらくは1798年から1809年までに、パリに没したものと思われる。

 マンハイム派の作曲家については、モーツアルトの項で述べましたので長々とは書きませんが、優秀な作曲を多数輩出した一派です。優れた作品が多く、モーツアルトもマンハイムでは多くのことを学んでいます。

 18世紀ドイツのプファルツ選帝侯国の首都マンハイムの宮廷において、カール・テオドール侯(在位1743~78)に仕えた音楽家たち。前古典派の拠点の一つであり、交響曲をはじめ、古典派様式を準備するとともに、絢爛(けんらん)豪華な宮廷音楽生活を繰り広げた。当時のドイツの交通要路であったライン川とネッカー川の合流点であり、テオドール侯の平和外交によって富み栄えたマンハイム宮廷は、当時としては最大規模の54名以上の大オーケストラを誇り、夏の離宮であるシュウェツィンゲン宮には最新の設備による歌劇場を建て、前古典派の代表的な作曲家ヨハン・シュターミッツを先頭に、才能豊かな数多くの音楽家を擁した。従来、音楽史上では交響曲の成立に関して、マンハイム楽派の貢献が高く評価されてきたが、その他の器楽曲、オペラ、教会音楽の発展におけるマンハイム楽派の役割も、再認識されつつある。日本大百科

 他には、

18世紀後半にドイツ,マンハイムのカルル・テオドール選帝侯の宮廷で活躍した音楽家のグループ。ボヘミア出身のバイオリン奏者 J.シュターミツをはじめ F.リヒター,A.フィルツ,C.カンナビヒらがその代表者。交響曲の第3楽章にメヌエットを取入れるなど,交響曲や室内楽の分野に新しい様式を確立し,演奏技術では運弓法の統一やクレッシェンド,デュナーミクの表現など,オーケストラに新しい演奏法を導入して古典派の形成に貢献した。ブリタニカ国際大百科事典

 いずれまた、多くの作品を紹介できると思いますが、正式には「マンハイム楽派」と呼ぶこのグループが音楽に果たした役割は大きいものがあります。

※ 以前の記事

① フルートの出番です127  シュターミッツ「フルート協奏曲」ト長調作品29

② フルートの出番です141  シュターミッツ「二つのフルートとチェロの三重奏」

 

 

シュターミッツ、アントン/ロンド・カプリッチオーソ ト長調

Stamitz, Anton Thadaus Johann Nepomuk RONDO CAPRICCIOSO G-DUR

<解説>
 アントン・シュターミッツは、マンハイム楽派の古典派交響曲の確立に貢献したヨハン・シュターミッツ (1717-1757) の次男です。長男は、通称カール・シュターミッツ (1745-1801) で、「フルート協奏曲 ト長調」 の作者としても有名です。この親子3人は、正確な名前では、父も次男もAntonを含むため、大変混同しやすく、間違われることがあります。弟アントンは、兄カールより作品が少なく、生涯についてもあまり知られていません。10歳の時、マンハイムのオーケストラで弾き始め、ストラスブルグに移った後、パリに定住し、主にヴァイオリン教師をしていたようです。この曲は、パリの出版社から出版されたフルートのためのコレクションが、パリの国立図書館に保存されていたものを元にしています。(解説/三上明子)