ヴィルトゥオーソの本分  チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」ホロヴィッツ | 翡翠の千夜千曲

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チャイコフスキー ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 作品23 ホロヴィッツ/セル Tchaikovsky, Piano concerto no. 1 in Bb minor

 

 

   ピアノの鬼神と言われたか、魔術師或は天才と言われたか、ありとあらゆる表現で、彼の人間離れした演奏技術を表現しました。その男リスト、その先生と言えば、皆さんもお世話になっただろうカール・チェルニーです。そのチェルニーが「演奏について」という著作の中でこんなことを書いています。

  あらゆるパッセージは可能な限り聴衆に強烈な印象を与えるように弾かなければならない。いかにも難しいことをやっているように聞かせなくてはならない。それはいい悪いの問題ではなく、「いずれにせよ我々が相手にしている聴衆は玉石混交であって、その大半は感銘をあたえるよりもアッと言わせる方が容易な連中だ」

  これを読んでくださっている中にはピアノを弾かれる方もいらっしゃるようですので、今日はピアノの巨匠たちを訪ねてみようと思います。最近は音楽大学にも「ヴィルトゥオーソ科」なるものができています。プロになるような人材を育てようという訳です。

  シューベルト以降には、サロン音楽と言うものがありましたが、あれは裕福な家庭の午後の紅茶の団欒とすれば、ヴィルトゥオーソの音楽はバッカスの神を呼ぶ純度の高い酒とともに楽しむイリュージョンでもありましょうか。しかし、それだけでは足りず、それはセンセーショナルで派手なテクニックと共に美学にまで高められねばならないと岡田先生は言われます。それはそうでしょう。

 一昔前の腕自慢のピアニストは、名刺代わりの一曲を持っていました。リストであれば、アンコールの締めくくりに必ず「半音階的大ギャロップ」という難曲を弾いたと言います。そういう例で思い出すのは、フリードリッヒ・グルダで、彼はあるピアノコンサートで曲目が終わりアンコールの時、グルダが聴衆に向かって「何か聞きたい曲あるかい?」と聞いたすぐ後、客席から「アリア!」との声があり、すかさず「グルダのだね!」と言って“グルダの「アリア」”をピアノで弾いたと言うのですが、私はこの場面を知っています。

  で、岡田先生が何人かの名を挙げておられる20世紀のヴィルトゥオーソたちの中で、私が良く知っているのはラフマニノフの自作「前奏曲嬰ハ短調」、ルービンシュタインのショパン「英雄ポロネーズ」、ホロビッツは自作の「カルメン変奏曲」ですが、以下の人物も代表曲も知りませんでした。ヨゼフ・ホフマンのモシュコフスキによる「スペイン奇想曲」、ジョセフ・レヴィーンのシュルツ・エヴラー編曲の「美しき青きドナウ」だったそうです。

  19世紀的なヴィルトゥオーソの究極の到達点がホロヴィッツのチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」だと言うのです。 最初の静止画像がその演奏ですが1950年の演奏は見つかりませんでしたが、1953年のこの演奏もジョージ・セル指揮のニューヨークフィルという同じ組み合わせです。

  下に、晩年(65歳頃)の演奏がありますので参考にご覧ください。(これがショパンかと言われれば、まあ・・・)

 

         

            Horowitz - The 1968 TV Concert

  

  これ以降少し長いですが岡田先生の文をそのまま掲載します。

  もちろんホロヴィッツといえば、伝統的な超絶技巧に触れないわけにはいくまい。しかしながらあえて私はここで、それを、彼への最大のオマージュとして、「天才的はったり術」と呼びたい。というのも、正確さや速さや音の大きさの点では、ホロヴィッツを凌ぐピアニストは結構いるからだ。彼の本当の凄さは、あたかもとんでもないことをしているように演出する技巧にある。例えばこの協奏曲の第三楽章。コーダに突入する前のカデンツァ(ピアノが単独で鍵盤を下から上まで駆け上がるオクターヴのパッセージ)の、エンジンが焼き切れてしまいそうなヒートアップぶりからして、これは途方もない演奏である。ミスタッチだらけはである。だが、恐らくホロヴィッツは、瓦解のリスクを覚悟で、意図的にテンポを上げているのだと思う。彼ほどの技巧の持ち主なら、ほんの少しテンポを加減するだけで、いくらでも無難に弾くことができたはずだからだ。しかし、無難に弾いてみせても、誰も「すごいっ!」とは言ってくれない。わざと危機一髪を演出してこそ、無事に着地したとき、観客は反射的に万雷の拍手を送ってくれる。このことをホロヴィッツは本能的に知っているのだろう。

  そして曲の一番最後、オーケストラと駆けっこをしながらピアノが両手のオクターヴで半音を駆け上がって行くパッセージ。あまりに目にもとまらぬ速度で弾かれるのできづいている人はほとんどいないと思うが、彼はここで1オクターヴ余分に弾いた挙句、オーケストラよりも数歩早く最後の和音に飛び込んでいる。「キチンとオケに合わせて」などということはまったく眼中になし。

  喝采を得るためには何でもする―このあられもない拍手に対する「成り上がり的がめつさ」こそヴィルトゥオーソ音楽の本質である。

  この時代のホロヴィッツの演奏をセルとの組み合わせで3回ほど聴きましたが、全体の演奏時間は殆ど変わりません。ですから、出来不出来はともかく、大体同じ調子でチャレンジしていることになります。

  

※ 岡田暁生「音楽史」を追随する取り組み③