命 最新版 | 法橋太郎のブログ

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ポエム 第九回歴程新鋭賞受賞

2021年アラブ語圏にてゴールデンプラネット賞受賞

 

聡明な王子がいた。門からいたずらに外に出て世間というものを知ってから彼は苦行を重ねた。肉体の痛みで心の痛みをやわらげる日日がつづいた。

 

心の痛み。彼はそれが何なのかいつも考えていた。そこで彼は確かに自分が思考していることに気づいた。彼は思考を止められれば心の痛みはなくなるのではないのかと思った。通りがけの女の手にのせられていた乳白色の皿。その皿から彼は腐った乳粥を飲みほした。

 

大きな樹のもとに静かに彼は坐って自分の心の動きを観察した。考えや思いが次つぎと湧いて出ては変わっていった。過去のこと、現在のこと、未来のこと。思考は駆けめぐってまた変わってゆく。彼はその思考を完全には止めることができないことを知った。

 

彼が何か思いに捉まると姿勢が崩れた。彼は何度も姿勢を正した。呼吸が彼の胸をふくらませた。汗が彼の顎から滴ってその胸を湿らせた。彼は自分の脳の思いで呼吸しているわけではないし私の思いで心臓を動かしているわけではないのだと気がついた。私はこの脳の思いだけをすべてだと思っていたのだ。私の思いはこの自分の命のすべてではないのだ。

 

私は脳で好き嫌い、信じる、信じないなどの判断を行う。愛も憎も脳の分泌物というだけにすぎない。それならこの両者はともに脳だけの思いにすぎない。私は愛や憎という思いであるまえに命なのだ。私の脳は私の一器官であって私の全体ではないのだ。私が思う以前、判断をする以前の私の命だけが確かなことで脳の思いはすべて正しいというものでないからこれはできるかぎり思わない方がいい。

 

私にとって私の命は絶対だ。私の命が絶対ならば自分が生きているかぎり確知するすべてのものが命なのだ。どんな苦しみがあったとしてもそれは自分が、命が、あるからなのだ。私は自分の思いだけがすべてだと思ってしまっていた。思いは脳という一つの器官の分泌物にすぎなかったのだと知った。この自分が命なら私が出会うところすべて命なのだ。

 

平等であって優劣のつけられないそれぞれの命、すべての命。他の人びとはそれに気づかないだけなのだと彼は知ったのだ。大地に腰を落ち着けてじっと坐る彼の頭上で五月の風が大きな菩提樹の葉をことごとく揺らしては去った。

                    2016/05/10

                    2022/03/07