「お互いさま」日本人が日常によく使う言葉です。私達日本人は、自分と他人の間を真っ二つに切ることをしません。それをまさに表している言葉が「お互いさま」なのではないでしょうか。
西欧の哲学は、常にキリスト教を意識して作られてきました。
対して日本のそれは、神道、そして外来宗教ではありますが、仏教による影響が多いのです。
「無常」です。「常ならず」です。昨日の自己は今日の自己ではない。3年前の私は今の私ではありません。私は絶対的ではないのです。同時に他人も絶対的ではない。自己という存在は、他者があるからこそ、男は女があるからこそ、親は子供あって初めて存在するわけです。子供のいない人は、親という存在がないのです。
皆、その時々の瞬間に、何かしら「実存」しているということなのです。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が意識のもとになっている西欧やアラブ世界は、
神と人間、男と女、違う者同士は「対立」することになります。二者の関係が切れているからです。日本人の意識は「対立」ではなく、つながり「補完」していると言っていいのではないでしょうか。
昨今、日本を訪れた外国人が、日本社会の「他者に対するリスペクト(敬意)」を非常に感じたと、コメントしている姿をYouTubeにアップされた動画で多々見受けられます。
その例で挙げているのが、交通機関のルールです。外国人は電車内の静かさに驚いています。乗車するときは降りる人が降り終わってから、並んで待っていた乗客が順序よく乗る「暗黙のルール」、我先にと他人を押しのけ乗ろうとするのが、西欧では普通だそうです。
日本が犯罪が少ないのも、自分がされて嫌なことは他人にしないという、「被害者」と「加害者」という二者が、切れている関係と言い難いと、私達日本人は意識するとしないとにかかわらず、思っているからです。自分が意図したわけでもなく、「加害者」になることもあります。交通事故などがその事例です。
人は、完全、絶対的な自己などありません。何気に他者とつながりつつ、日々変化し「実存」しているのです。