明治三十三年(1900)十月、顕本法華宗の田辺善知から大石寺に対して公場対論を申し出る書状が届けられました。これを受けて大石寺側は、阿部慈照師(第五十七世日正上人)と土屋慈観師(第五十八世日柱上人)の二人を立て、顕本側の田辺らとの間で数度にわたる準備書簡の往復をし、同年十一月十一日、対論規約を結びました。
その内容は、論題を「経巻相承と血脈相承の当否」「末法における釈尊本仏論と宗祖本仏論の当否」の二つとし、引証の御書は録内御書にかぎり、双方三名が交互に弁論し、法論の決定後に敗者は帰伏の広告を出したうえ、一宗を挙げて改宗することでした。
富士派は、これらの規約締結に先立ち、宗会での議決を経て、宗内僧侶の賛成調印を得ていましたが、顕本側は、元の官長をはじめとする反対者もあって宗内をまとめることができず、十数度にわたる富士派側の文書による請求にも、言を左右にして問答後の責任の所在を明らかにしませんでした。
そこで対論の責任を重んずる富士派は、翌三十四年(1901)一月十七日、顕本側の契約不履行を理由に問答破棄を通告し、その経過を一般誌(明教新誌)に広告したうえで、一月二十日、東京江東(江東区)において、日応上人・日正上人出席のもと、「対・顕本法華宗問答破棄理由公開演説会」を開き、同宗への七箇条の質問書を一般に公表配布しました。
その後も双方のやり取りは続き、富士派は同年二月二十日、東京両国(墨田区)において「顕本退治の大演説会」を開き、質問自由として顕本側を招待しましたが、参加した百名前後の顕本側からは質問の名のりはありませんでした。これに対し、顕本側は四日後に同所で講演会を開き、富士派側が問答を取り下げたと悪宣伝しながら、富士派側参加者の質問申し込みを許さず、一方的な自論の発表に終始しました。この理不尽な姿勢に対し、富士派は同年二月二十六日、顕本側・本多日生の地元で
ある東京北品川(品川区)で演説会を開き、やじ・怒号の飛び交うなか、顕本側を破折しました。
このとき、再度問答を行うことを双方が取り決め、その規約を「交互に二十分以内の発言をする(趣意)」と結び、三月一日、東京両国において、日正上人と本多日生との間で公開問答が行われました。
この問答は交互に六回ずつ発言し、大石寺側は、道理・文証・現証によって「血脈相承」の正義を述べ、顕本側の「経巻相承」を論破しましたが