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萬靈蠢蠢(シュンシュンうごめく)とするも皆な其の本有り。萬物芸芸(花や葉が多い)とするも各おの其の根に歸す。
未だ根本無くして枝末有る者有らざるなり。
況や三才(天地人 易説卦伝)の最靈に中して本源無きをや。且し人は智なるを知れば、自のずから知は明なり。
今我人身を禀得するも自らは從り來たる所を知らず。
曷ぞ能く他世の趣く所を知らんや。曷ぞ能く天下古今の人事を知らんや。
故に數十年中學に常師無し。博く内外を攷して以て自身を原(たづ)ぬ。
之を原ぬるも已には其の本を得るを果たさず。然れども今儒道を習う者は、
秖(SATでは抜け)だ知るのみ、近ければ則ち乃祖(だいそ 汝の祖先)乃父(汝の父)傳ふる體を此の身に相續受得す1。
遠ければ則ち混沌とせる一氣 剖れて陰陽の二と爲り、二は天地人の三を生じ、三は萬物を生ず2。
萬物と人とは皆な氣を本と爲す、と。佛法を習ふ者は、但だ云ふ、
近ければ則ち前生に造業し隨業受報して此の人身を得。
遠ければ則ち業又た惑に從ひて展轉し乃至阿頼耶識を身の根本と爲す、と。〔儒道佛法の〕皆な已に窮るも實に未だきを謂ふなり。
然れども孔老釋迦は皆な是れ至聖なり。時に隨ひ物に應じて教を設け塗(ズ みち)を〔地獄餓鬼畜生道の三途に対し?〕殊にす。
1 cf孝経開宗明義「身體髪膚,受之父母」 2老子四十二「道生一、一生二、二生三、三生万物。万物負陰而抱陽、沖気以爲和」道教の中心的一派である天師道の老子注『老子想爾注』では「道氣歸根。愈當清淨矣」等と、道と、『原人論』でもいう気は親近性が高い。
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1.2 この言葉は、人間の言語の本質に関する独特の理解を示しているように思われる。つまりこうである。言語の中の個々の言葉が対象に名前を付けるーー文章はそのような名前の組み合わせである。
この言語についての理解の中に我々は以下の考えの元となるものを見出す。:すべての言葉は意味を持っている。その意味はその言葉と関係がある。それ(意味)は言葉が拠って立つところの対象である。
1.3 アウグスティヌス は、言葉の種類によって何らかの違いがあることは語っていない。この方法で言語習得の過程を描写するなら、まず最初に「テーブル」「イス」「パン」 のような名詞や人の名前を考え、次になってやっとある動きや特質の名前や、残りの種類の言葉(それはそのうち明らかになるであろう als etwas, was sich finden wird)を考えることになると私は思う。
1.4 ここで、次のような言語の使用について考えよう。:私が誰かを買い物に行かせる。私は彼に"five red apples"と書かれた紙片を与える。彼がその紙片を店員の所に持っていくと、店員は"apples"と書かれたひきだしを開ける。それから彼はテーブルの上の"red"という言葉を探して、その向かい側の色の見本を見つける。それから彼は順番に基数を言う―彼はそれを暗記しているとしよう――"five"という言葉まで、しかも彼はそれぞれの番号の度に見本と同じ色のリンゴをひきだしから取り出す。人が言葉を扱うのはこのようなやり方なのだ。――「しかし彼はどうして"red"という言葉を探す場所と方法と、"five"という言葉によって何を始めるべきかということを知っているのか?」――ここでは、彼は私が描写した通りに行為することを前提とする。説明というものはどこかで終わりを迎える。しかし"five"という言葉の意味は何であろうか。――そのようなことはここでは問題にならない。ただどう"five"という言葉が使われるかについてだけだ。
2 先ほどの哲学 的な意味の観念は、言語がいかに機能するかについての原始的な考えから発している。しかし、次のものは我々の考え(1.4?)よりもさらに原始的な言語についての考え方だと言う人もいるかもしれない。
ある言語を想像しよう・・・その言語は建造者Aと助手Bとの間の意思疎通の役に立つためにある。Aは建築 用の石材 で建造している:石材 にはブロックや柱、厚版や梁もある。Bは石材 を渡さなければならないが、しかもそれはAがそれらを必要とする順番に従ってである。そのために、彼らは「ブロック」「柱」「厚版」「梁」という言葉から成り立つ言語を使う。Aはそれらの言葉を叫ぶ。--Bはこれこれの叫び声が起こると持って来るようになった、持って来ることを学んだ(bring)石材 を持って来るーーこれを完全に原始的な言語だと考える。