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1971年7月3日。札幌・丘珠空港より函館に向かっていた東亜国内航空YS-11型「ばんだい号」(JA8764)は午後6時10分、「これより着陸する」との交信を函館管制塔に行なったが、エンジン音は全くせず、行方不明に。その24時間近くも経過した翌日午後5時36分、函館空港から15km
離れた横津岳山腹で木っ端微塵になっているのが自衛隊ヘリにより発見された。

乗員・乗客68名全員が死亡した。

当時、ボイス・レコーダやフライトレコーダは装備されておらず、ハッキリした原因は不明とされたが、
推測としての原因解明はあった。

当時は現場は濃霧で、パイロットは計器飛行とレーダー誘導に頼らざるを得なかった。

そこで地上レーダーで位置を確認し、「函館空港手前」と判断。

しかし、運悪く、横津岳山麗の付近の山や丘には丁度うまい具合にレーダーが乱反射して、函館空港と
同じ数値を示す場所があったことが後に確認された。

そこで機長は「横津岳通過」と誤認。着陸態勢に入り、滑走路に進入するつもりで、疑いも無く普通に横津岳にそのまま激突した・・・・・・・・・・と推測された。

以後、その航路は飛行禁止になり、海を迂回する航路に変更された。

おかしいのは当時の世論で、「UFOにより撃墜された説」が浮上したり、一流の某週刊雑誌がオオマジメに恐山のイタコにパイロットの霊を呼び出させ、事故原因の独占インタビューを行なったりした。

それは当時、心霊写真やUFO、ノストラダムスの大予言、ユリ・ゲラーによる超能力など俗にいう
「オカルト・ブーム全盛期だったせいもある。因みに「心霊写真」が注目され始めたのもこの年。
とある女子高生が撮影した写真がきっかけだった。