正体はネコ | たらればの世界

正体はネコ

その日は仕事が遅くなって、最寄り駅に着いたのは11時、否、12時を回っていたかも知れません。

残業が続いていたので、その時私の頭の中にあったのは、「早くシャワーを浴びて、早くベットに入りたい」、唯それだけでした。

あの道は気にいらない。特にこんな夜更けに歩くのはためらう、そんなことは判っていたんです。だけど、その日は、早く帰りたい一心。その道を歩けば断然私のマンションまでは近道。譬え常もは通らなくても。

判っているんです。道の左側――唯過ぎ去るたった1分のあいだ、振り向かなければいい。そう、それだけだって云うのも判っているんです。

その場所を通るまで、駅を出て、遅い時間といえど、駅前の繁華街にはまだ人はいるし、終電までには時間が少しある。だから、心配することなんて無い。私のマンションなんて、駅からそんなに離れているわけでもない。なんなら、走ればいい。ヒールが気になるけど、社会人も慣れた私なら大丈夫、走れる。

繁華街を抜けると、住宅街の境界線、少しだけ明かりが減る。家が密集しはじめ、コンビニを過ぎると、また、少しだけ、明かりが減ってくる。この辺りにさしかかると、家族連れの家庭が増え――子どもがいる家庭の就寝は早く、家からの明かりも、また少し減っていく。

いつの間にか、駅前では騒がしかったくらいの人の気配も薄れ、やがて、道も狭くなり、囲まれた一戸建ての塀を抜ける道からは空も狭く、見通しがわるく、唯私のヒールの音だけが、辺りに響くようになっていたのです。

あの角を曲がれば……左には寺の門がまえ。暗い色をした樹で創られた寺の門。その庭先から延びる竹。その奥には……、考えないよう努めれば努める程、あの光景が頭をよぎる――墓地。その奥には、もう随分古くから墓石の立ち並ぶ、墓地があるのです。苔がむし、くぐもったように湿気の多い木陰。陽溜まりの中でみるその光景は、慎ましく鄙びて、それは懐かしさを覚えるような、そんな風景なんです。でも、若し、その光景を、こんな街灯のともっていない夜更けにみたら……

今通りすぎる。たったの1分。私の鼓動と共に、ヒールの擦れる音も速くなる。簡単なことなんだ。「左側をみなければいい、左側さえみなければ……」。吹きだす汗。暑いから汗が流れる筈なのに、やけに背中を流れる汗が冷たく感じられたのです。

そのときでした。音がするのです。遠くから、否、そんなに遠くじゃない……ここから、10メートル、否、5メートル……あの墓地までの距離。猫の鳴くようなか細い、音とも声ともつかない、糸のような、か細く、長く延びた音。微かに、でも、確かに。

だからといって、決して振り向いてはいけない。時間はもう終わりに近づいている。私は恐怖と、私の中に沸き起こる幼稚な好奇心と必死に闘いながら、ヒールのある靴で、でも確かに地面を踏みしめながら、転がるようにその墓地の脇を通りすぎていったのです。

もう、あのお寺からも随分離れた。このまま、なにも振り返らず家まで帰ろう。少しずつ整っていく鼓動の中、私は息をつき、さぁ、すぐにシャワーが待っている、そんなことを思っていたのです。

そのときです。

あの音がするのです。

私のうしろから。

5メートル……否……3メートル……いいえ、私の頭は恐怖で、都合よく解釈しようとしていました。その音は、さっき墓地の横で確かにきいた、その音は、私のすぐ背中のうしろ。そう、そこまで迫ってきたのです。

振りかえってはいけない。

振りかえってはいけない。

再び、速まる鼓動と足音。

恐怖。

まるで息がかかるような距離まで迫ってきている。そして、私のうしろから気配が、ついてくるのです。私の家までは、もう、遠くない。急いで階段を駆け上がり、ドアに鍵を掛け、無理を云って彼氏にきてもらおうか。

恐怖。

叫んでしまえば楽になったでしょうか。振り向いてしまえば楽になったでしょうか。いいえ。私は必死に自分が逃れる道を、振りかえったそのときにその先の未来がみえないことを、考えていました。

ここで、振りかえってはいけない。

どこまでも迫りくるけはい。まるでその気配は、私のヒールに棲んでいるのでいるかと云う位、ぴったりと、加速する私のスピードにくっついて、離れません。霧が絡むように、まとわりつくように、か細い音をあげながら、その気配は私を追いかけてきたのです。

もう、気が動転していた私は、景色などなにも目にはいらなくなっていました。だけど、自分のマンションのエントランスが目にはいったとき、これほど「嬉しい」と思ったことは生涯ありませんでした。

尚もついてくる気配。それは、ますます重く、鈍く。しかし、もうあのドアを開ければ、私は逃げ切れる。遂に私は靴を投げだし、階段を駆け上る。ますます、追い立てる気配。もうすぐ、もうすぐ。

もう鳴る振り構わず、髪も乱れ、息も切れ、私の部屋のドアへ!

バックから鍵をとりだし、鍵穴へ――鍵が開かない……!

まさか、こんな時に……!?

うしろから迫り来る気配に怯えながら、私は鍵穴に、押しつけ、引き、揺すり、必死にドアを開けようと藻掻く。

迫りくる気配。私はドアに縋るように、鍵を捻る……


……スルメ!

私が鍵だと思っていたのは、先輩から貰った上野土産、アメ横・小島屋の剣先スルメ。さっきビールを買ったコンビニ前で、待ちきれず一口味見した。嗚呼、なんて馬鹿らしい!こんな時に!

でも……なんと恐ろしい……!

開いたんです……私のマンションの鍵が。スルメで……。