ずっといる自分 -8ページ目

ずっといる自分

生きにくくて 生きやすい世界に
産まれてきた事

ぐっすり寝てて
うっすら目覚めて

両足が痒くて痒くてたまらなくて

まぶたを開けたら
そこは家の部屋で

薄明かりがあるから
明け方に感じたら

まだ一時台で

それは多分月明かりで

心臓はバクバクして
音楽を鳴らしてみて

書いてみて
書いてみて
書いてみる

身体は正直で
掻いて腫れた脚は

おさまろうとして
眠りが はれた脳は

心を揺らしてる



まだ陸酔いでフワフワ身体上下も止まらない

かなり海荒れで揺れた船に
乗っては降りて乗っては降りて

部屋の屋根の高さが
違和感が
心臓を鳴らす


ジンマシンを防ぐように
痒い
音楽があった

わたしがいた

時間がある

布団にいる

夜がある

朝がある

言葉があって 声にならずに

ただ 手がとまらない




釜山に行って、船に約500人の韓国の人々が乗ってきて
二日後あたりから

どうも、私の中の意識度が高くなって「アニョハセヨ」と言わなければならない、
そんな“挨拶しなければならない”に 、疲れだした。

食堂に行けば、韓国の人ばかり 。
船内で通りすぎる人も
日本人は気にならなくても
韓国の人だと、いちいち気になって心が反応してすれ違う
どこかに怖いとゆうもんが出だした。

仲良くならなくちゃいけない

それは、日本の人とすれ違っても出ない

意識のし過ぎに 気がつきながら、とうとう通りすがりの挨拶もしなくなった。
でも、全員意識してたらたまったもんじゃないし
何気なく同じ空間にいるのも
なぜか気まずくて

話しかけられない

それに自分自信が反応してた。

後半になって
そういえば韓国の人は
特別に「こんにちは、おはよう」
それを言ってくることはない。
同じ空間にいて
過度な 言わなきゃ、仲良くならなきゃ
が出てた。

やっぱ疲れたらハングルの船内放送も耳に痛くなった。

交流とは 何だろか
最初からつまづきながら
すべてを合わせようとしなくていいと思うって意見を聞いた。
結局、最後ツアーの時に日韓で通訳上、少しの時間別れてて楽だった

そのあと合流して 一緒に歩いてて 韓国人同士が会話してて
日韓交流ツアーは、同じものを見たり聞いたりしてるんだ
後ろの座席で楽しそうな会話に、楽しんでるんだ
そんなのが伝わってきた

クルーとの挨拶は楽なのに
どうして苦になったんか

多分 わたしはクルーとの挨拶はいつも顔がゆるやかになってるはずだ。
親しみとかが湧いてる
もてなされ、仲良くなりやすい

この複雑な違いは
どっかからでてた
英語かもわからないし、姿形かもわからない

一回、友達の部屋で若者どうし夜交流してるから行こうよって遊びにいったら、ついてけずに身は堅くなってた。





なんだかfacebookみる余裕なんかが無い。

微妙に11月の頑張ってた日々が風邪症状になってあらわれながら、釜山で在日の被爆者の人の話をきき、交流し、バスでは韓国の若者とスマホに助けられ会話

沖縄へのこで の景色とリアルさ自分が感じたもんと、ずれてく何か

敦賀手間でメモがとれなくなって、船内で講座を聞いても頭に入り込んでこなくなった後

敦賀にツアーとってたのに
ベッドから電話まで行けなくて原子力のことを、何にもないほど
生命維持してく為の人間の本能で埋め尽くされたこと

その後、悔し泣きかよくわかんないもんだらけに なったこと
脱原発クルーズに乗りながら
原発との関係が 何者にもならなくなった瞬間

しゃべり場に初めて参加した面白さと
あえていうなら のまれる危険性も含まれていたこと

長崎に行くツアーも無理なんじゃないかってキャンセルしかけて、レセプションでやっぱりやめて
その後の会話の方向で
翌日、行く自信を作れたこと

ケロイドや死体の写真のガン見
聞くばっかだと、アウトプットがなくて
すごくスッキリしない
そんな水先案内人の方々の話。
けれど、なんだか大変だったのにもう一度体感したい

そんな日韓共同脱原発クルーズ

やっぱ、おじいちゃんが昔から
長崎原爆資料館に連れて行ってあげたいって気持ちを
受け止めたもんが 強かった。
そして、岡まさはる記念平和資料館は 強烈に日本兵の姿を
とらえてる

韓国、朝鮮との歴史の理解は
あの事実をなくして捉えちゃならないと、深く突き刺さった。

過去なのか、今なのか

ただ、日本は同じように
原子力の被害を拡大してしまうなら

とてもバカな国になる。