先日、フジコ・ヘミングが亡くなり、彼女が注目されるきっかけとなったETV特集の

『フジコ~あるピアニストの軌跡~』を久しぶりにみて、少し意外な感じがした。

 

私は、彼女のファンではない。

もっといえば、彼女の演奏に感動しているファンの顔つきが嫌だ。

この番組をきっかけにブームが起き、「魂のピアニスト」という宣伝文句に目の色を変え、

まるで聖人を崇めるように祀り上げる熱烈なファンほど質の悪いものはない。

 

そこにあるのは、あいだみつおや晩年の小澤征爾のファンに共通する、

宗教的な、ファナティックな心理現象である。

「まちがったっていいじゃない、人間だもの」というフジコの言葉はあいだみつおの書そのままの言葉のようである。

 

しかし、番組を観ていて、意外だったのは、

そこで演奏されていたショパンの《ノクターン 変ホ長調》と、

リストの《ため息》には、私はいやらしい印象を持たなかったということだ。

 

その演奏にあったのは、戦前からのヨーロッパの演奏伝統の香りで、

何がどうしてそう思うのか、といわれると困るが、旋律を優先する態度といえばよいだろうか、

装飾的な伴奏よりも、旋律線を聞かせようとする態度である。

彼女を認めたというチェルカスキーやマガロフのスタイルがそういう演奏であった。

 

ただ、《ラ・カンパネラ》には若干の演出臭さがあった、やはりここで何かの方向性が捻じ曲げられたのだろうと思う。

「世界で最も難しい曲」という番組内のテロップも気になった。

《ラ・カンパネラ》は、当然、リストの中では難しい作品ではない、むしろ易しいほうである。

《ピアノ・ソナタ ロ短調》のほうがよほど難しいし、《パガニーニの主題による練習曲》のなかなら終曲の第6番のほうが圧倒的に難しい。

しかし、視聴者は安易にこうした宣伝文句に飛びつくのである。

 

人は、そうした宣伝文句とエピソードを咀嚼し、骨までしゃぶりつくそうとする。

天才少女と話題になりながら、ハーフで国籍がスウェーデンだったため、パスポートを失った、貧乏のどん底にあえいだ、耳が聴こえなくなった、

すべて日本人が好きな苦心談である。

だから佐村河内のような人間が出てくるのだ、ということを日本人はどうして学ばないのだろう。

 

それはともかく。

フジコ・ヘミングの日常をみながら、私はどこかで惹かれずにはいられないものがあった。

それは映像として演出されている部分もあるだろうが、部屋の調度にあるヨーロッパ趣味には、演出しきれない匂いがある。

その雰囲気が、いつも誰かに似ているな、と思っていたがその誰かが思い出せずにいた。

ところが、この特集を観ていてはたと気づいた。

 

森茉莉だ。

 

森鷗外の娘で、60歳をこえて小説家・随筆家として活動を開始し、

ある一部の間で大変にもてはやされた人である。

非常に独善的に美を語る、その語り口は、読む人を選ぶ。

貧しく汚いぼろアパートに住みながら、文章からは貧乏くささを放逐したような

絢爛たる言葉が並ぶ。

 

たとえば、『貧乏サヴァラン』のなかの「お菓子の話」の冒頭。

 

 思い出のお菓子。それは静かな明治の色の中に沈んでいる紅白、透徹った薄緑、黄色、半透明の曇ったような桜色、なぞの有平糖の花菓子。

 大きな真紅い牡丹、淡紅の桜の花、先端が紅い桜の蕾、緑や茜色を帯びた橄欖色の葉。薄茶色の木の枝には肉桂の味がした。紅白で花のように結ばれた、元結いの形のも、あった。

 

「明治」とあるように、ここには現代がない。その言葉の字面にも、彼女が生きていた時代の今は刻まれていない。

あくまで、彼女が少女時代を過ごした明治大正の言葉だというのがありありと伝わってくる。

有平糖をここまで美しく描ける文章もそうそうないと思う。

それは、思い出の中にあるからで、思い出が非常に明確に色鮮やかな形をともなっているから書けるものである。

 

実は、かくいう私が森茉莉を好きで、一時期オークションで自筆原稿を買い漁ったのだから、

私もファナティックなファンのことをとやかく言えないのかもしれない。

しかし、森茉莉に依存することはなかったので、やはり一人の作家として見ていたのだろう。

 

フジコ・ヘミングにしてもそうである。

私にしてみれば、古い演奏スタイルのなかを生きていた一人のピアニストであり、

ある頑固な生活態度を維持し続け、思い出を大事に抱えて生きていた国際人の姿である。

作家の吉田健一などもそういうタイプの人だっただろう。

そして、私は吉田健一の文学が好きなのだ。

 

自分の人生がこれというときに時を止め、あえてそこに留まり続けることを選ぶ人がいる。

それだけの「美しい時」を生きたという実感が、その後の人生のなによりも鮮やかだったという人がいる。

三島由紀夫の『黒蜥蜴』にこういうせりふがある。

 

女でさえブルー・ジンズを穿く世の中に、彼女は犯罪だけはきらびやかな裳裾を五米も引きずっているべきだと信じている。

 

黒蜥蜴の犯罪を評した言葉で、私は『黒蜥蜴』のせりふで一番好きなところのひとつである。

「きらびやかな裳裾を五米も引きずっている」かたくなな精神、それに耐えられるだけの美しい時を私はつい想像したくなる。

 

フジコ・ヘミングという人自身もそういう類の人だったのだろうと思う。

ただ、マスコミが浪花節根性の苦労出世譚にしてしまったのが、

何よりも苦々しい。

 

しかし、彼女もまたそこに乗ったのだから、決して美しいだけの人でもなかったろうし、

それは森茉莉も吉田健一も同じなのである。