京都アニメーション放火殺人事件の青葉被告の死刑判決が出ました。

 

その事件の日のことは忘れようにも忘れられません。

 

2019年は、4月にパリのノートルダム大聖堂の火事がありました。

愕然としながら、名建築は燃えるときも美しいなどと、慰めにもならない慰めを見いだそうとしてYouTubeのライブ動画を見ていました。

中世の木造の屋根が焼け落ちた悲嘆にくれながらも、薔薇窓やヴォールトは無事で、

心から安堵したのを覚えています。

 

それからわずか3か月後に京都アニメーションが放火されたという速報を、

授業に向かう電車の中で知り、震えが収まらなかったのを覚えています。

それは美しいなどと慰めようにも慰めようのない、陰惨なものでした。

36名が亡くなり、その中には、私が愛してやまなかったアニメ『氷菓』の、

武本康弘監督も含まれていました。

いまだに、武本監督の作品を観ると、その愉快さ、明るさにもかかわらず、

ふと涙を覚えます。

 

『氷菓』は、10年も前の作品にもかかわらず、いまだに鮮やかさを失っていません。

それだけ質の高い作品でした。

(もちろん他の作品も、そして犠牲となった他のアニメーターたちの仕事の素晴らしさは、

ここに書ききれるものではありません)

 

その犯行動機が京都アニメーションが自作をパクったという、ほとんど妄想じみた動機だったtことが、裁判が始まって分かってきました。

そんなくだらないことで、日本のアニメーションの一翼を担うアニメーターをこれほど失ったことがやるせなくてなりません。

 

何をどうパクったと主張しているのか、3か所だと言います。

 

1、水泳部を描いた『Free!』で、校舎に垂れ幕がかかる、という描写。

2、弓道部を描いた『ツルネ』で、2割引きの肉を買う場面が、ヒロインが5割引きの総菜を買う、という自分の設定のパクリ。

3、軽音部を描いた『けいおん』で、先生から留年をほのめかされる、という描写。

 

正直なところ、誰が見てもこれをパクリだと思える神経が理解できないわけです。

それらはオリジナリティの発生するような瞬間ではないからです。

垂れ幕がかかった校舎が出てくるアニメなら、それこそ『氷菓』にも出てきますし、

留年なら、『けいおん』でなくて『ガールズ&パンツァー』の副委員長でもいいわけです。

 

当然ながら、筋違いな恨みだということで、この主張は通らない。

 

しかし、私が気になるのは、よりによって、そんな普通の描写に彼がこだわったのか、

ということです。

なぜ、それを自分のオリジナルだと思い込んだのか、そこが気になります。

(千反田えるのようですね)

 

この3点は、2つに分類できます。

1は、「垂れ幕」という晴れがましい名誉をついに自分は得ることがなかったという、憧れの象徴です。

2と3は彼が抱いた劣等感やコンプレクスに直結する現実的な自分の投影です。

 

おそらく、金銭的に不自由することの多かったであろう被告は、割引の総菜を買う日常だったのでしょう。

(まあ、私もスーパーでは割引狙いで買っていますけど)

そのみじめさを主人公に投影し、その主人公が虚構の中でだけは活躍することで、

自分もまた救われていたのだろうと思います。

 

また、被告は家庭の問題が原因で、不登校になったりと

「留年」ではないものの、いわばアニメーションが描くような「バラ色の高校生活」ではなかったわけです。

「留年」という言葉は、自分にとって悲惨な現実をそのまま書くには忍びないため、

和らげた結果だと言えるでしょう。

 

ただ、高校は、定時制高校に通い、皆勤で生徒会長も務め、きわめて真面目であったというのですから、けっしてどん底のような生き方ではなかったらしい。

 

つまり、彼がこれらにこだわらなければならなかったというわけは、

自身の境遇を反映しているからに他なりません。

それゆえ、彼にとってみれば自分自身が汚されたように感じたのだろうと推察します。

とはいえ、私からすれば、定時制高校を舞台にしたドラマを作ったほうがオリジナリティのあるものになった気がするのですが、彼にとってみればそれはあまりに生々しかったのかもしれません。

 

しかし、彼の成長期が不幸なものであったからといって、

それが犯罪を行うことを肯定する理由にはなりえないことは一目瞭然です。

問題のある家庭に生まれ育った不幸を私は知りませんし、

私が同じ境遇に育ったとき、同じことをしなかったと、完全には否定できません。

 

私は、いつでも自分が一歩間違えば犯罪者になっただろうし、なりうるだろうと思っています。

しかし、犯罪者にはなっていませんし、なりたくもありません。

 

決して恵まれた家庭に生まれていない人もいることを知っています。

しかし、その人たちが全員犯罪者になるわけでもなく、

またその境遇ゆえに犯罪を許されているわけでもありません。

 

京アニはあまりに明るく、自分の半生はあまりに暗い、というようなことを述べていたようですが、私からすれば、それを作品にすればよかったのに、と思います。

 

                       * * *

 

そして、「オリジナル」とは何か、「パクリ」とは何か、という問題に私の頭は向かっていきます。

そもそも、アニメの設定や内容で、パクリといえるのはどういうときなのか。

たとえば、部活ものになったとき、たいてい、やることは決まっています。

 

選択肢は次のように始まります。

1、名門部

2、廃部寸前、やる気のない部活

3、新部設立

 

そすうると、いくつかの設定が生まれます。

A、かつては名門だった部活だが、今は廃部寸前となっている。

   →主人公は、かつての名門の復活を目指し、仲間とともに切磋琢磨していく。

B、廃部寸前の(やる気のない)部活

   →主人公は、やる気を起こさせ(あるいは誰かによってやる気が起き)、練習を重ね、

     名門(たいてい知り合いとなるライバルがいる)を試合で破る。

C、名門の危機

   →名門ゆえに規律の厳しい部活に、破天荒な(天才肌の)主人公が入部し、

     ぶつかりながら、問題を解決し、仲間になっていく。

 

まあ、いくらでも組み合わせで作れます。

その際、主人公のキャラクターは、たいてい高い能力をもっていることになりますが、必ず問題を抱えていることになります。

1、本来弱いが、仲間たちとともに強くなっていく

2、本来強いが、何らかの原因で自信を喪失している。

3、普段は能力を持たないが、何らかの条件を満たしたときだけ、強さを発揮する。

 

これらはいずれも、「AだがB」という型にはまります。

それは、能力的な内容にかぎらず、見た目でも反映されます。

その場合には、ギャップがそのキャラクターの魅力になるのです。

 

このようにしてみると、今書いた設定とキャラクターでは、「パクリ」といえるようなものは生じようがない。

なぜなら、物語の基本的な型だからです。

 

残るは、その設定やキャラクターへの肉付けの部分になってきます。

それは、特徴的な見た目や、特徴の取り合わせ方、

決めぜりふや口癖のようなものです。

たとえば、部活なら「戦車道」なるものはきわめて稀な部活です。

これは、もし『ガルパン』以外の作品で使えば、「ああ、パクッてるな」と思われるでしょう。

しかし、剣道や弓道であれば、これは一般に存在している部活がありますから、パクリとはならない。

 

『ツルネ』であれば、優れた選手だった主人公がスランプに陥り、それが高校の普通の弓道部に入って、部員たちによってスランプを抜け出していく話です。

弓道をあつかって『ツルネ』のパクリとならない、同じく部活ものを作ろうとすれば、

同じ設定、主人公の性格と成長を避けるべきだということになります。

新しい部活を作る、とか、まったくめちゃくちゃな技を繰り出すギャグ系にする、など。

 

あるいは、「~だっちゃ」と言えば、それはオマージュでないかぎり

『うる星やつら』のパクリだとみなされるでしょうが、そもそもこれも東北地方の方言ですから、

それをふまえていると、パクリとはいえなくなります。

複合的な組み合わせからパクリだと認定される、ようするにそれは程度と内容との結びつきの問題です。

マンガであれば構図やコマ割りのようなものまで含まれてくるでしょう。

 

いずれにせよ、物語というものは、多かれ少なかれ何か既存の作品と似ている部分や共通する部分は含まれています。

 

その作品を特徴づけるものが他の作品に流用されることで、不利益を被ることがある場合のみ、著作権侵害、つまりパクリが問題となるわけで、それはオリジナリティという「創作」の能力とは別の問題となってきます。

 

さて、長くなりましたが、京都アニメーションに対するやるせない思いが、

この文量を書かせました。

犠牲者に合掌しつつ、そして、今だ後遺症に苦しむ方と遺族の方に思いをいたしつつ、

文章を結びます。