宮崎駿監督の新作『君たちはどう生きるか』を先週みてきました。

 

大変な作品でした、そう、「大変」。

 

理解するのが大変という意味でもあり、

壮大な作品という意味でもあり、

とほうもない労力をかけただろうということでもあり、

なにがなんだかもう「大変だ」と思わせる作品でした。

 

「おもしろい/つまらない」、「好き/嫌い」、「傑作/駄作」といった、二元論的評価を吹き飛ばす作品です。

ひとつだけ二元論的にあげるなら「わかる/わからない」でしょうか。

その点でははっきりしています。

「わからない」です。

もっと正確にいうなら、「わかりきらない」。

 

この作品を観てふと思い出すのが、

ヴェルディの最後のオペラになった《ファルスタッフ》です。

80歳を迎えて、それまでの「ヴェルディらしさ」を解体してみせた作品です。

 

シークエンスの連続性をもって綿密にクライマックスへと組み立てていくのではなく、

積み木のようにばらばらなパーツを、ばらばらなものとして見せる、

オペラとはこうできている、といわんばかりのメタ性をもった作品です。

 

 

まったく同じ印象を『君たちはどう生きるか』に感じました。

自分の過去の作品の膨大な断片を織り込み、それを分かるように見せています。

カットによっては絵コンテのままのような、過去の作品では絶対ないような

目をラフな点々で描いたかと思うと、異様なまでの細密描写で風の吹く草原をえがく、

作画に一貫性がありません。

細密な描写、油絵風の描写、マンガっぽい描写、リアルな描写、ばらばらです。

それを衰えととることは簡単ですが、おそらくそうではないのでしょう。

 

私でもぱっとみて分かる作画の違和感を、

宮崎駿などという天才が分からないはずがない。

おそらく、細部まで美しく仕上げられていたのは『もののけ姫』だったと思います。

その隙のなさに対して、『君たちはどう生きるか』は隙だらけといっていい。

しかし、私はその作画のうちに、「アニメとは絵だ」というメタ的な主張を感じました。

 

『もののけ姫』は、屋久島が舞台となっており、

屋久島に行くと、「まるでジブリみたいだ」と言われることが多いのですが、

じつのところこれは本末転倒で、『もののけ姫』が「屋久島みたいだ」と言うべきはずです。

つまり、絵が絵であることをやめ、虚構が現実に置き換わろうとしてしまいます。

しかも、その虚構の森は、決して汚いものが存在しない、「理想の森」です。

 

宮崎駿の作品は、いつも「理想の森」でできていたと言ってもいいでしょう。

腐海すら、ナウシカをして「きれい」と言わしめるのです。

なんなら私たちだって腐海に行ってみたいような気分になる。

 

この現実と虚構の転倒した関係を元に戻すには二つの方法があります。

ひとつは、写実的に汚い部分を描く、もうひとつは、客観的に描いて絵だと分からせる。

『君たちはどう生きるか』は、その両方を試みたのだと思います。

 

写実的に汚い部分というのは、糞の描写です。

おそらく今までの宮崎駿の作品では、生き物が糞をしている、という描写はなかったのではないでしょうか。

ヤックルが糞をすることを、『もののけ姫』を見ている人は考えるでしょうか。

『となりのトトロ』には「お便所」とメイが言う場面こそありますが、当時ありふれていたはずの肥溜めの描写はありません。

(こんどアニメ化される『窓際のトットちゃん』の原作には、ぼっとん便所に落としたがま口を探す場面があります。)

『紅の豚』のアジトで、ポルコ・ロッソはどこで用を足すのでしょうか。

 

今回の『君たちはどう生きるか』にはこれでもかという糞の描写が出てきます。

そう、生きているとはそういうことです。

 

もうひとつ、絵だと分からせる方法、

それは作画の質をばらばらにするのが一つ、

そして、現実の風景ではない絵画の風景を引用するのです。

 

前作の『風立ちぬ』は、作品をつくるとはどういうことか、という創作論のメタファーでできた作品でした。

飛行機は美しい夢だ、という言葉は、宮崎駿の創作観と思っていいでしょう。

『カリオストロの城』から宮崎駿は「美しいもの」を描いてきました。

あるいは「気持ちの良い連中」を描いてきました。

それは「きれいごと」とも言われかねないものです。

しかし、今回、その美しい夢をあえて壊しにかかった、というところに、

私は宮崎駿の作家性をみます。

 

もちろん、美しい描写もたくさんあります。

しかし、同時に気持ちの悪い描写や、汚い描写も存分にあります。

理不尽な存在がいます、理不尽な感情もあります。

宮崎駿は、いつでも美しいものは描けるのでしょうが、

あえてそこに傷をつけにいきます、そういう作品です。

 

物語は全体を把握できないまでも、主要なモティーフはいくつもあります。

ネタバレと言われない程度に抽象化して書いておきます。

 

・家族との和解(親子の愛)

・生と死(文字通りの意味でもあるし、これも生みの苦しみととれば作家論にもなります)

・ディープインパクトとの出会いは人生を変えてしまう。

・創作は受け継がれていく。

・作るためには壊さなければならない。

・高畑勲への愛(とくに冒頭は『火垂るの墓』と『かぐや姫の物語』のハイブリッド)

・タイムスリップものへの(しいて言えば新海誠への)ダメ出し

 

案内人(?)となるアオサギのモデルは鈴木敏夫だと、鈴木敏夫本人がラジオで言っていました。

主人公の少年は宮崎駿、途中で出てくる気風のいい女性は長く色彩設計をやっていた保田道代だそうです。

その意味では自作の引用も含め、フィクションとしての自伝だともいえるでしょう。

 

 

『君たちはどう生きるか』は、宣伝なしで初日10日間の興行成績が非常に良いということで話題にもなっています。

そりゃ、宣伝にも困るでしょう、この作品を15秒でまとめてくれといわれても、無理ですし、

それによって誘導されれば、作品の豊かさは半減どころではありません。

 

もっといえば、タイトルが『君たちはどう生きるか』だから、

私たちはこの映画が「生きる」ということに関わるらしいとどうにか考えることができているのです。

英語版では『少年とアオサギ』になるようで、こうなるとまったく別の物語が想定されてしまいます。

(少年とアオサギの友情、が主題になるわけです)

 

この作品は、その意味でフェリーニの『81/2』にも匹敵する自己言及性と多様性でできています。

フェリーニはタイトルまで抽象化しましたが、さすがの宮崎駿もここまではやらなかった。

やらなくてよかったと思います。

 

 

つじつまのあった、みんなが求めるわかりやすいアニメ、などというのはおそらく宮﨑駿なら簡単に作れることでしょう。

それをあえて無視し、多くの視点で見ることができ、多くの答えを出せる、

開かれた作品を82歳で作ってみせたことに、私はただただ感嘆するのです。

そのエネルギーは、「枯淡」などとは無縁のバイタリティーで、

やはり私は80歳のヴェルディと重ねずにはいられないのです。