オリンピックが始まりました。

 

開会式の様子を見ながら逐一、突っ込みをいれ、そしてバッハと橋本聖子のの長々とした演説を聞き流し、天皇陛下の開会宣言にもかかわらず、遅れて立つ不始末を世界に流した菅総理に憤りを覚えつつ、それでも始まってしまえば、オリンピックはやめた方がいいと言っておきながら選手たちのプレイに思わず力が入っています。

 

今回、このオリンピックは、自分の中にアンヴィヴァレンツなものを作り、

靴の中に小石があるまま歩き続けるような居心地の悪いものを絶えず感じさせます。

 

ものを書いたり、書かれたものを研究する立場からすると、

このオリンピックはひたすら考えることの多い事柄だらけになりました。

佐野研二郎の剽窃、ザハ・ハディドの建築案撤回、そして、過去の発言による小山田・小林氏の直前の退任。

 

とくに小林賢太郎ファンの私としては、複雑な思いにとらわれました。

開会式で評価の高かったというピクトグラムのパントマイムには、

小林氏のハンドマイムが明らかに反映されていて、嬉しくなる自分がいる。

その一方でファンでもなんでもない小山田圭吾氏については、まったく冷淡でいられる、なんとも整理のつかない気持ちにさせられます。

 

これを矛盾のないかたちにしたければ、「両者とも許されない」と断罪すれば済みます。

いつでも問題になることは、こうしたアーティストや芸術家の作品と人柄はどこまで連動するのか、という問題です。

 

では、今回に限らず、一般に「作品」と「作者の人柄」はなぜ一致していることが前提にされるのか、あるいは一致しなかったときにはどうやって折り合いをつけているのか、

そんなことを考えてみたいと思います。

 

歴史上、性格的にはほぼ破綻しながら、すばらしい作品を残した、という芸術家は数えきれないほどいます。

パワハラ、モラハラ、DV、薬物、そういったことのオンパレードです。

 

たとえばピカソなどは女性をとっかえひっかえして、しかもその女性たちの多くが精神を病んだり自殺したりしている。

一部では問題にされていますが、だからといってピカソの作品の値段が下がるわけでもない。

 

ベートーヴェンが怒りっぽく、また疑い深く、家政婦に食器を投げてぶつけたりしていたけれども、「世界は兄弟となる」と壮大な音楽を作り上げて、人々が感動している。

夏目漱石は家族に対して暴力をふるうことが多々ありましたが、それが原因でお札の肖像が変わったわけではない。

 

多くの人が好きな太宰治だって、愛人を心中で殺しながら、妻子を持った後も愛人と一緒に心中する、人間的にはろくでなしでしょう。

 

三島由紀夫は、自衛隊に乗り込んで占拠した(これは有事です)わけですが、それが犯罪行為として立件され、出版禁止になったわけではなく、むしろそれが一つの美学として持ち上げられ、新潮文庫の売り上げに貢献している。

 

もちろん、三島を犯罪者として「意味わからん」とする人たちは一定数いますし、当時の佐藤首相なども「気が狂ったとしか思えない」と言ったりしています。

その一方で、その行為に意味を見出し、いっそう三島をたたえる人たちも一定数います。


この違い、温度差は一言でいえば、「愛」です。

その作品を通して、私は自分の人生に何かしら、それなくしては得がたいうるおいを得た、

そして、それを与えてくれた彼ないし彼女を愛してしまったんだからしかたがない、

そういうことです。

「断罪」の対極にあるのが「愛」です。

それは、「条件付きの愛」か「無条件の愛」か、という違いです。

 

「小山田好きだけど、これはあかんわ」と言っていた人たちは、ようするに「条件付きの愛」で、

これが大方をしめています。

あるいは「誰それ」という無関心です。

そのいっぽうで、こういうことがあっても、「小山田がやっぱり好きだ」という人も一定数いるわけで、その人たちは「無条件の愛」を彼にもっているわけです。

 

ところが、ことオリンピックという大舞台では、このごく私的な、個人的な「愛」の問題では片付きません。

つまり、国家的な行事、という公的な役割が与えられたなかで、

小山田氏、小林氏(あと佐々木宏や絵本作家もいましたね、)の過去やその発言は、国益にとって不利益を与える、と判断されたのです。

 

私がみるところ、小山田氏がいじめをしていた、ということが問題なのではありません。

それが証拠に、この一件であらためて世の中のいじめ問題に焦点があてられたかというと、

そうではないし、

学校に障がいのある生徒がいたときの在り方について理解を深めようとする番組が組まれたかというとそうでもない、

小山田氏ひとりの発言、行動が問題にされていることからも明らかです。

 

彼に求められているのは、「いじめをしていたのに国家的な名誉を担った一音楽家、の失墜」というシナリオによる「代償」です。

 

そう、求められているのは「代償」なのです。

 

小林氏の「ホロコースト揶揄」が小山田氏ほどの火種とならず、擁護が強いのは、

作品の一部としてであること、謝罪が適切であったこと、日本でユダヤ人問題への関心が薄いことがまずありますが、

チャリティなどの活動を行うことで社会還元する人格という「代償」を支払い続けてきたためです。

まさに情けは人の為ならず、です。

(彼に対する「無条件の愛」が多い、ということもあるでしょう。)

 

一般に、性格に問題のある芸術家たちは、何らかの「代償」と引き換えに、その生存価値を認められているといってもよいのです。

その「代償」とされるのは、まずもって「作品」です。

つまり、こんなに素晴らしい作品を残したのだから、というわけです。

三島はとんでもないことをしたかもしれないけど、『金閣寺』をはじめ日本近代文学の傑作を残したんだ、といえば、

それを読む人には納得されるでしょう。

 

しかし、三島の『金閣寺』を読まない人にとっては、これは「面白くない(=わかりにくい)芸術」、「意味不明の紙とインク」にすぎません。

ピカソの絵も同じですし、小山田圭吾の音楽も同じです。

だから、その作品に「無条件の愛」を覚えない多くの人にとって、彼らの作品は彼らの人格の「代償」にはなりません。

 

彼らの人格がもたらした「罪」に対しては、その人格に「代償」が求められることになります。

 

三島由紀夫も腹を切りましたし、太宰治も死にました。

「死」という「代償」はかなりの割合でちゃらにしてくれます。

あとは、「孤独」や「無理解」、「不遇」、「貧乏」なども「代償」としては有効です。

 

夏目漱石は別に代償は払っていないかもしれませんが、たとえば、鏡子夫人を「悪妻」としてつり合いがとられてきたのかもしれません。(鏡子夫人は決して悪妻ではなかったのですが。)

 

ピカソは、《ゲルニカ》のような反戦的な作品を描くことで、平和活動への「貢献」という「代償」を得ているのかもしれません。

しかし、それは作品による「代償」であって、女性に対する扱いが、いまさらながらに問題視されるのは、

ピカソは、何らかの形でその輝かしい生涯を辱められるべきだ、それが「代償」となるためです。

 

バンクシーだって、いってみれば街を汚す落書きを描くのですから、よくヤフーのコメントでも、

「しょせんは落書き」みたいなコメントを出す人がいますが、それはようするに、バンクシーに「代償」を見出せないために、かわりにコメントで貶めることで、「代償」を払わせた気になってせいせいしているといえます。

彼が欧米で他のストリートアートと一線を画しているのは、そのメッセージが社会批判だったり、紛争地域へ赴いてそこにアートを残すという、命の危険という「代償」があるためです。

 

 

こうしてみると、一連のアーティストの人格と作品をめぐる是非は、

個人のものである「無条件の愛」という「無償」性と、社会的な(大衆的な)「代償」を求める「有償」性の対立であるといえそうです。

小山田氏が社会に「赦される」としたら、それは被害者に謝る、ということではなく、

社会活動を継続するという手段がもっとも有効です。

問題を起こした芸人や芸能人がよくボランティアを行いますが、それが「代償」とみなされないのは、継続性がないためです。

つまり、支払いが足りないのです。

 

ちなみに、この「代償」という考え方は、物々交換以来の、交換原則に基づいているように思われます。

そして、彼を攻撃しておくほうが利益率が高い、この場合の利益とは「正義という満足」です。

ところが、「正義という満足」を得ることにやっきになり、自分の行動のバランスの悪さには目もくれない。

 

「いじめる奴には社会的な死を」と求めることは、それ自体が「いじめの構造」を有することには無頓着です。

「いじめ」とは「代償」をともなわない優越であることに罪深さがあります。

 

小山田氏に対する攻撃は、「代償なき正義」であって、決して「正義」などではないという矛盾に気づかないといけないのですが、批判する人たちはそれに気づいていないようです。

 

「正義」もまた「エゴ(欲望)を犠牲にする」という「代償」の上に成り立つものだからです。

自分の命の危険をかえりみず、他者を助けること、これは「正義」でしょう。

この場合には、「命」というかけがえのない「代償」を賭けているから尊いのです。

「代償なき正義」は総じて眉唾、エセであるとみなしたほうが「正義」の性質がはっきりします。

 

復帰したければ、本人がまず「代償」を支払う必要がある、

これが物々交換以来の経済原理ですが、それが唯一の手段ではありません。

 

それは、「無条件の愛」の担い手であるファンが、「肩代わり」するというものです。

いっしょになって批判を浴びろ、という意味ではなく、また、小山田氏の過去から目をそらし、背中を向けてなかったことにするのでもなく、彼の音楽を聴くごとに胸の痛い思いや悩ましさを抱えつつ、自らは人をいじめたり、痛めつけたりするまいと努力し、それが作品と作者を浄化していく、という手段です。

 

小山田ファンがいじめについて深い理解をもち、よりよい人格の持ち主として人前に立ち

「どんな音楽が好きなの」といわれてたときに「小山田圭吾」と胸を張って答える人たちが多くなるほど、彼は速やかに「赦される」ことでしょう。

こう書くと、宗教的な気持ち悪さを覚えるかもしれませんが、

ファンとはfanaticから生じた言葉であり、

fanaticとは、もともとラテン語で「神の霊感を受けた」状態=「何かに憑かれた」状態のことを表します。

 

そうでないかぎり、つまり彼のファンはいじめに対して目をつむる、つまりは「代償」を支払わないとなれば、「同罪」とみなされ、彼の人格が復帰するわけでもありません。

 

小山田氏のファンでない私は彼のためにはしませんが、

(いじめに理解を持たない、という意味ではない)

小林賢太郎ファンである私は、少なくともこのオリンピックでの苦い思いを抱えながらも、彼の作品を愛し続けるでしょうし、

少なくとも私はホロコーストのような歴史的な行いをよく学び、記憶し、語る、そうすることで、

ふつつかながらも「肩代わり」に加担したいものだと思うのです。

 

少なくとも上から目線で、「そろそろ赦してやるか」などという立場には立ちたくないものです。