いつまで続くかと思っていた緊急事態宣言が、昨日解除されました。

私は普段が在宅勤務のようなものなので、何不自由なく暮らし、

幸いにも給料が著しく減るということもない、いたってありがたいところにいる人間です。

だから、どこか危機感もなく、多くの医療、飲食、宿泊関係者の苦労から距離があります。

 

いや、いつだって私はこの日本、この日本人に距離をとりながら、暮らしています。

その距離感から書くものです。

 

昨日、首相が緊急事態宣言を解除する際、「日本モデルの力」という言葉がありました。

たぶん、疑問に思った人も多いはずです。

いったい政府がモデルとして行ったことはなんだったのかというと、

「三密」という言葉を発明し、「自粛」をお願いし、「マスク」を配り、「10万円」をもらう権利を与え、「補助金」をある程度出すことを決めた、ということです。

これは、感染症対策のモデルになるのでしょうか。

(私は、反アベではありません、ただ距離を置いて眺めているのです。)

 

モデルとは「型」、「典型」、「規範」という意味を持ちます。

日本が世界に示した「モデル」とはなんでしょうか。

 

私は、二つあると思います。

一つは「潔癖な日本」、もう一つは「封建下農村的相互監視社会」です。

 

「潔癖な日本」というのは、たしかにモデルとしては意味があるのかもしれません。

いつ何時ともマスクをし、手を洗う、それはCOVID-19が流行る前から行われていました。

私が教壇に立つと、全員がマスクをしていて不気味だったのを思い出します。

何しろ顔の表情が読みにくい。

手洗い、うがい、マスク、それが功を奏したといえば、それはもう数十年前からスタートした習慣です。

首相の手柄でもなんでもない。

 

 

 

もう一つの「封建下農村的相互監視社会」は、長たらしい熟語にしてしまいましたが、

かつての「封建国家」のもとでの「農村」にあった「相互」に「監視」しあう「社会」という意味です。

私が勝手に作った言葉です。

 

日本において「自粛」が成功する、というのは「自らつつしむ」というのではありません。

つつしまなければ、他者からの一斉攻撃を受けるからです。

 

お上のお達しを破れば、立てなくなるまで石を投げつけ、飢え死にするまで無視する社会です。

現に、そういうことをこの数ヶ月してきた人たちが相当数いるのです。

 

自らの責任と意思で行動を行うのではなく、他者からの視線の監視のもとで自分の意思が決定されていく、

よく言われるように同調圧力といってもよいでしょう、それが日本を席巻しているのです。

 

目に見えないけれども監視されている、「壁に耳あり障子に目あり」の社会です。

それが家から出られない状況を作り、自分も壁に耳を当てる側になれば正しいと思っているのです。

 

この一週間ほど話題になっている、検事長の定年延長にしても、

「それを認めたら法治国家ではない」と言っていますが、この現状を見てみればわかります。

日本国民は法の支配のもとに動いていないのです。

「同調圧力」言い換えれば「ネガティブな忖度」の国民性で生きています。

 

以前、みんなよってたかって「忖度」を攻撃していましたけど、

その「よってたかって」がすでに「ネガティブな忖度」の精神性のもとに動いているのです。

自分の意思で、その事例を調べ、考え、判断を下した人がどれくらいいたでしょうか。

「テレビで言っていたから」「コメンテーターの何某が言っていたから」「みんながそう言っていたから」、

そんなところではないでしょうか。

 

封建国家のもとでの農村社会では、常に農民は我慢を強いられる側となり、あるときその命令を下す奉行所や幕府に対する反旗を翻して攻撃することがあります。

ご存知の「一揆」と「打ち壊し」です。

 

耐えるだけ耐えて、耐えられなくなれば一斉に攻撃する、

それに対して、幕府は大抵の場合、鎮圧というよりは政策の変更を行ってきました。

ここに「法」はありません。

なあなあの関係です。

 

「お上は悪」であり、「平民は我慢」であるという思想自体が、

すでに封建的なものの考え方です。

嫌なら日本を捨てればいいし、その自由も与えられています。

首相が悪いのでもなんでもありません。

その首相を作り出し、長期政権を作り出し、くだらない野党を作り出し、

目くそ鼻くその罵り合いを作り出したのは、すべて日本国民です。

 

私たちの責任です。

 

日本は法治国家であり、それはきちんと機能しています。

どんな嫌いな人間、いやな人間、だめな人間、社会のクズのような人間、そういう人間が生きる権利を主張できる、すばらしい国です。

文句を言うなということではありません、文句を言う権利が法律で認められている国です。

しかし、その法治国家を見えなくしているのは、日本人全体の問題です。

 

では、日本人は変わるのでしょうか。

変わりません、日本人はつねに「なあなあ」でできており、

その居心地のよさを手放すことはないですし、

その「なあなあ」の中にも、手放しがたい美しい場面もいくつもあるのですから。

 

だから、これは世界に発信できるモデルでもなんでもありません。

歴史的に繰り返されてきた「日本」が、また現れたというだけのことです。


そして、喉元すぎれば、という日本人が多いわけですが、現に今も入院して生死の境をさまよい、懸命に治療している人がいるのだと、思えば、おのずとどのように自分が行動するか考えられるのではないでしょうか。