8月29日、ベートーヴェンの「名作」、オペラ《フィデリオ》を観てきました。
演奏はNHK交響楽団、指揮はパーヴォ・ヤルヴィ。
オケの演奏は木管セクションがなんだか揃っていませんでしたが、弦楽器はよく揃っていました。
当代きっての歌手を揃えた、というだけあって、本当に素晴らしい歌唱でした。
演奏はもったいぶらずにさくさく進みます。
《フィデリオ》を初めていい作品だと思えた、と言ってもいいかもしれません。
ずっと前から思っていたのですが、この作品は、オペラとしてはどうしても一枚落ちるように思えてならないのです。
アリアや重唱、一つ一つの曲としての完成度は高いのです。
しかし、オペラとしての魅力に欠ける気がしてならない。
この演奏を聴いて、その理由がわかった気がします。
それは端的に言えば、音楽に「動作指示」のきっかけが非常に少ない、という点にあります。
もちろん、ベートーヴェンは苦心しながら、「動作指示」を入れようと努力していて、その努力は報われているところもあります。
第1幕冒頭のヤキーノとマルツェリーナの二重唱は楽しい。
それは、二人の動きが見えるように書かれているからです。
そして、ドアのノックという「邪魔」が音楽によって挿入されることで、ユーモアだと伝わる。
あるいは、第2幕冒頭のフロレスタンのアリア、これも身振りと表情がわかるように書かれているからドラマとして聴けます。
《フィデリオ》は3回の改訂を経ていますが、1806年のバージョンと最終稿となった1814年のバージョンを見比べると、このフロレスタンのアリアには、大きな変更がもたらされていることがわかります。
「私は義務を果たしたのだ Meine Pflicht hab ich getan!」のあとです。
1806年のバージョンでは、へ短調でAndante un poco agitatoとなっており、カヴァティーナのような、叙情的な旋律で、レオノーラのことを懐かしく思い出しています。
ところが、1814年には、ここはへ長調でPoco allegroになっている。
まったく調性もテンポも違うのです。
しかも、1814年版のほうの初版のヴォーカルスコアでは、ト書きがついていて
「狂気に入る一歩手前の陶酔状態で In einer an Wahnsinn grenzenden, doch ruhigen Begeisterung」と記されています。
つまり、感情の起伏がより強調され、暗い牢獄という視覚的状況と朗らかなへ長調の対比が、
フロレスタンの異常な状態を示します。
それによって、彼の苦痛が観客により強く訴えられる、という効果を得ています。
だから、この辺りはオペラとしてよくできています。
しかし、第2幕のレオノーラとフロレスタンの二重唱とフィナーレには、そうした変化記号がほとんどない。
この辺りがモーツァルトと反対なのです。
ベートーヴェンは群像表現が苦手なのだというのがよくわかります。
一人の内面的葛藤を描くことはできても、舞台上の動きを想定しながら、その舞台上全体の動きを決めるような音楽を書く能力値は高くはなかったのでしょう。
モーツァルトが《フィガロの結婚》、《ドン・ジョヴァンニ》第1幕、《魔笛》第1幕などのフィナーレで次から次に惜しげもなく変化を与え、舞台上の動きをつけていくのとは対照的に、
ベートーヴェンのフィナーレはカンタータかオラトリオのように、動きのない賛歌になっていく。
ベートーヴェンの《フィデリオ》は、「偉大」なものを想起させる機能は持ち合わせても、舞台上の動きを作り出す機能は持ち合わせていない。
演奏会形式で、最小限の演技に留められた《フィデリオ》を観て、そのことがとても腑に落ちたのです。
もちろん、台本自体に、動きがない、ドラマの対立項が弱い、とくに善悪の直接対峙が少なすぎる、という弱点や、ドン・フェルナンドという権力が現れてレオノーラとフロレスタンの窮地を救うという御都合主義もまったく現代的ではない。
その対立項がぶつかった時の心理が見えてこないわけです。
まあ、200年前の作品にケチをつけても仕方ないのですが、
そうしたドラマとしての難点を抱えたオペラが、確固たる位置を占めている、ということを改めて面白く思ったのでした。