寺山修司について書きたいと思うと、不思議と彼の本がなくなります、
まるで書かれるのを拒んでいるように、
本棚の薄暗がりに逃げ込んだり、カバンの奥底に息を潜めたり、
こちらは大立ち回りをするうちに、書きたいことは鮮度を失い、
結局言葉を飲み込んだままになります。
そういうのが寺山修司です。
しかし、今日は、『寺山修司全歌集』を仕留めたので、少し書き留めておきます。
『田園に死す』の最初に置かれた有名な歌。
大工町寺町米町仏町母を買ふ町あらずやつばめよ
上の句をすべて町名の列挙にあてます。
大工町、寺町、米町、こういうのはいかにもありそうな町の名前、仏町に少し死の匂いがするところです。
ところが、下の句に入った途端「母を買ふ町」とくる。
この言葉の並びは、母を殺したい、という寺山の通奏低音が聞こえてきます。
ただ母を殺すのは忍びないから、殺しても死なない気がするから、
母を売って自分の身から引き離したい、という怨念が聞こえてきます。
さらには、売るわけですから、そこには母から生臭い「女」の匂いが立ち上ってもきます。
そして結句の途中で「あらずや」と疑問・反語をあらわす「や」を置いて区切ります。
ないものだろうか、という疑問ならそれは少し穏やかに読みすぎで、
最後にいきなり視線を空に向け、「つばめよ」と呼びかける。
ここにも、呼びかけの「よ」を置いて強調する。
そうすると、この「あらずや」は絶望的な叫び声の反語で、「ないのだ!」
自由に空を飛ぶつばめよ、お前なら地面をはいつくばるように歩いているこの俺のかわりになって、俺の願望である母を買ってくれる町を見つけてはいまいか。
たった31音のなかに、しかも難しい言葉は一つもないままに、これほど濃密な世界を描いて見せられるのは、寺山修司ただ一人でしょう。
そして、上の句の道筋をたどった主人公は、母のいる家へと帰っていく、そこまで見えてきます。
あるいは、『空には本』の一首。
夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず
「夏蝶の屍」この言葉だけでも、あでやかな死体、というものから何か壮麗なイマジネーションを立ち上らせます。
それを最上の獲物としてせっせと運ぶ蟻一匹を見下ろしている主人公。
どんなに歩いても人間である自分の影を出ることがない、壮麗な獲物を手に入れた蟻を憐れむような口ぶりですが、蟻はまた自分自身でもあるのでしょう。
蟻は蝶の翼を手に入れていても飛ぶことはできない、それは自分のものではない。
詩もまたそうなのでしょう。
寺山自身は常に自信とコンプレクスと母の呪縛の中にがんじがらめになりながら、
唯一の武器たる言葉で、どんなありきたりなものでも、ありきたりの言葉でも、
組み立てを変えるだけで、いかようにも美しい蝶の羽を持っている。
ただ自分だけは飛べない。
上に掲げた二首は、相似の関係になっています。
町をさまよいながら母を買う町を探し、つばめを見上げる主人公の目は、
夏蝶の屍をひいてゆく蟻の視点と相似を描きます。
もちろん、初期の歌
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり
これは言葉から得られるイメージが単純に美しく、
中学だか高校だかの便覧に載っていたのをみて、
とても印象に残っていたのを思い出します。
しかし、穂村弘が解説で面白いことを書いています。
なぜ少女が「海を知らぬ」ことを「われ」は知っていたのか。
歌として、内面から規定される「海を知らぬ」という主観が、三人称の「少女」にかかることで、そして、外面から規定される「麦藁帽」という客観性が、一人称の「われ」にかかることで、内面と外面の奇妙な逆転現象が生じる、というのです。
そんな面倒臭いことをかんがえなくても、
言葉になっている外側で少女が「私は海を見たことがない」と言ったのだろう、
と想像すればことは済みます。
しかし、そうやって考える人には、おそらく寺山の魔術は、「きれいねえ」を超えることはなく、その世界の皮膜を剥がした裏側を覗き見させてはくれないのでしょう。
寺山修司の短歌は、言葉がうちに秘めている魔力に改めて気づかせてくれます。