駅に貼られている広告ポスターで気になるフレーズがありました。
ゼクシイの「愛をしようぜ」という一文です。
「愛する」ではなく「愛をする」、なぜこう書くと違和感があるのか。
 
サ変動詞「する」に名詞がつくと、その名詞の行為を働くことを表します。
「感謝する」「努力する」は「感謝をする」「努力をする」と言えますが、
「信ずる」「屈する」は「信をする」とか「屈をする」とかとは言いません。
「愛する」も同様です。
 
まあ、一字だと分けられない、と言えばそれまでなのですが、
「恋する」は「恋をする」と言えるのです。
 
「愛する」と「恋する」の違いは何か。
ゼクシイのこのキャッチコピーの制作者は「恋する」に注目した後、「愛」に置き換えて、違和感を作りだそうとしたに違いないのです。
 
たとえば、「恋」が「愛」になる、などという歌の文句がありますが、(さだまさしの《恋愛症候群》だったと思います)そういう、上下のヒエラルキーに置けるものなのでしょうか。
 
「愛」を「する」とはどういうことなのか。
そもそも、私たちはこの「愛」という言葉をはなはだ曖昧な定義の中に置いています。
結果、こういう問いにいきつきます。
 
愛とは何か。
 
まず、古文で「愛す」という場合、それは上のゼクシイの広告から連想されるような、男女の仲をさすのではなく、「いつくしむ」「かわいがる」といった意味でした。
また、「愛しむ(かなしむ)」とも読みました。
 
一方で、熟語として用いる場合、主に三つの意味に分れるようです。
1、「大切にすること」「可愛がること」
「愛敬(温和でやさしいこと、顔かたちがやさしく可愛らしいこと)」
「愛玩(いつも手元に置いて好んでもてあそぶ)」
「愛惜(非常に大事にして可愛がる)」
「慈愛(いつくしみ愛する)」
2、「好むこと」
「愛唱(詩歌などを好んで歌うこと)」
「愛憎(好もしく思ったり憎んだりする感情)」
3、「欲求」
「愛執(煩悩の一つ、愛するものに執着すること)」
「愛着(物にとらわれ、執着すること、特に男女の愛欲に執着すること)」
「愛染(むさぼり愛する心)」
「愛欲(むさぼり愛する心と欲望)」
(以上、『漢字源』、『旺文社全訳古語辞典』から)
 
1、2は親和性がありますが、3はまったく異なります。
私たちがゼクシイの広告に見いだすのは、おもに3の感情のようです。
ここにあるのは徹底的にネガティヴな意味です。
 
その理由は簡単です、いずれも仏教用語だからです。
この世のしがらみとなる「愛」は断ち切り、解脱を目指すという宗教思想にとっては否定的に働かざるをえないものです。
 
漢字の「愛」の字のつくりをみると、
「心」はともかく、心をはさむ上下の部分は組み合わさると、
「後ろを向いて立つ人」ということになるそうです。
つまりは「後ろに心を残しながら、立ち去ろうとする人の姿を写したもの」だそうです。
 
それに対して、「恋」は古語でも今と変わらない意味です。
「恋ふ」は「乞ふ」、つまりは魂を呼ぶこととつながる言葉です。
字の起源を辿ると「恋」は「戀」で、「心」に対して、旁は糸がもつれ、乱れる様を表すということです。
 
ただ、漢字学者の白川静は違う見解を示しています。
言の両旁に糸飾りを垂れている形。言は神への誓約の辞を収めた器。それに呪飾をつけてその誓約に違うことがない意を示したもので、もとは神を楽しませる意の字かと思われる。」(『字統』p.901)
白川の見解に従うなら、それは神への言問いであり、遠く離れたものへの呼びかけであるので、「こひ」という日本語に当てはまると言えます。
 
そうすると、「愛」には手元にありながら、いずれかが離れていくことを表し、
「恋」はいまだ届かざるものに対して呼びかけることを表します。
 
成就がない!!
ゼクシイ、どうする。
 
成就する場合は何というかと言えば、「結ぶ」です。
あるいは「約」の字をあてます。
「約る」と書いて「ちぎる」と読みます。
「契る」とも書きます。
 
それはたとえば、『古事記』のイザナギとイザナミの国生み、神生みに表れています。
あまりに有名な部分ですが、ここにはまさに「こひ」「ちぎり」「かなしむ」が連続しています。
 
天の御柱を立て、八尋殿を立てた後、イザナギがイザナミに問いかけ、
足りぬ部分と余る部分を塞ぎ合わせて国を生もうと言います。
この呼びかけが「こひ」です。
 
そして、柱を巡り、出会うとまぐわいます。
柱を巡る前に交わした約束がに「約り」の字が当てられています。
これが「ちぎり」です。
 
国を生んで後(間の云々は省略)、神々を生み、迦具土神(カグツチ)を生んでイザナミは亡くなります。
それを悼んで、イザナギは「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命(みこと)を、子の一つ木に易(か)へつるかも」と言います。
「いとしいわが妻を、子ども一人に変えたことよ」という意味です。
この「いとしい」には、手元にいたものが離れて行ったことを惜しむ意味がこめられています。
これが「かなしみ」です。
 
したがってゼクシイの「愛をしよう」というのは、
手放しがたいけれどいずれは離れて行ってしまう何かを、今はと、いつくしみ、惜しみ、大切にしよう」ということになります。
わりと切ないキャッチコピーです。
大切にするのは結構なことだと思いますけどね。
 
ところで、上の二文字を用いた「恋愛」という熟語は、明治時代になって作られた翻訳語で、上の「恋」とか「愛」とは全然異なる意味合いで用いられていたことが、柳父章の『翻訳語成立事情』に記されています。
 
「恋愛」とは、「魂を深く愛する」ことと解釈されていました。
loveには肉体的な、というよりは、精神的なものに重きが置かれているというのです。
1870年の『英華辞典』にto loveの訳語として「恋愛」が当てられ、
実際の用例は中村正直訳のスマイルズ『西国立志編』(1870−71)が最初だろうとのことです。
李嘗テ村中ノ少女ヲ見テ、深ク恋愛シ」というのが初めだそうです。
 
その後、さまざまな議論が起こる中で、北村透谷が『厭世詩家と女性』(1892年2月)に「恋愛を抽き去りたらむには人生何の色味かあらむ。」と断言します。
しかし、それは文学上の、観念上の「恋愛」であり、現実的な恋愛とはおよそ異なる方向へと進んでいったそうです。
 
 
非常に日本らしいといえば日本らしい。
この観念化・理想化した「恋愛」に対し、敢然と立ち向い、文学の現実を見つめたのは誰あろう、夏目漱石です。
漱石は『文学論』の中で、文学的内容の基本成分を抽出する作業の中で、「両性的本能」すなわち「恋」として論じています。
 
「凡そ年若き男女が、慕ひ合ふは、彼らが自覚せずして、精子の意志に従ふものなり」「触は恋の始にして終なり」という言葉を引用した上で、次のように述べます。
 
随分如何はしき言葉のやうなれど、赤裸々にいひ放てば、真相はかくあるべきなり。ただ恋は神聖なりなど、説く論者には頗る妥当を欠く感あるべし。
 
漱石先生、赤裸々に言い切った!
 
そして、いくつか精神的な愛を説く「恋は無上」という内容の詩の例を挙げた後、
キーツの『エンデュミオン』から「いかなる息吹も、牧場の微風と優しく混じり合うことはあるまい、それがあえぎ、ささやいて、相手の心から情熱を盗み取るまでは、」という詩句を引用し、文学の危険に触れます。
 
尋常の世の人心には恋に遠慮なく耽ることの快なるを感ずると共に、この快感は一種の罪なりとの観念付随し来ることは免れがたき現象なるべし。
 
この一文から、漱石の中・後期の新聞小説を読めば、彼が『文学論』で語っていたことを実践しているのがよく分かります。
とくに『こころ』の前編で、先生が私に「恋は罪悪です」と明言するあたりは、この『文学論』をふまえて読むと大変に面白くなります。
 
漱石はしかし、それにとどまらず、さらに不倫についてまで言及します。
「既婚の女性は、結婚指輪の狭い環の外側をのぞき見た時、まぶたを伏せ、目に見えぬ炎に身を焼きつくすことになる。」というメレディスという作家の小説を引用し、
 
恐くは、これが真実なるべく、また古往今来かかる夫人は夥多あるべし。(中略、不倫の反社会的性質、東西の倫理感からの反発をふまえ)されば作家が如此き不法の恋愛を写し、しかも、これに同情を寄するに至りては、到底吾人の封建的精神と衝突するを免れ能はざるなり。
 
と述べています。
そこから、漱石は「嫉妬」について話を進めていきます。
それはともかく、私が漱石に感歎せずにいられないのは、
「文学とは何か」と問うのではなく、「文学はどのように書かれているか」ということを徹底して論じていることです。
綺麗事を廃して文学を捉えようとする漱石の、日本人に対する果敢な挑戦です。
 
つらつらと、本当にだらだらと書いてきましたが、
「恋」と「愛」と「恋愛」にまつわる、様々な感情を見事に一言で、シビュラの預言のように曖昧にしたまま、後半の告白を予感させる、漱石の名人芸で筆を置くとしましょう。
とにかく恋は罪悪なのですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ。
 
やれやれ頭が疲れました、チョコレートでも買いに行きますかな。