ときどき、詩を、時間をかけて一生懸命読んでみたいと思うことがあります。

先日、授業で取り上げることになった島崎藤村の「千曲川旅情の歌」は、

文語定型詩です。子供たちにはイメージも何もつきにくい。

第一、教師の方がどこまで分かっているか分からないくらいです。

だから、真剣に読んでみました。

 

 千曲川旅情の歌

 

 小諸なる古城のほとり 
 雲白く遊子
(いうし)悲しむ
 緑なす繁蔞
(はこべ)は萌えず
 若草も藉くによしなし
 しろがねの衾
(ふすま)の岡邊
 日に溶けて淡雪流る

 あたゝかき光はあれど
 野に滿つる香
(かをり)も知らず
 淺くのみ春は霞みて
 麥の色わづかに靑し
 旅人の群はいくつか
 畠中の道を急ぎぬ

 暮れ行けば淺間も見えず
 歌哀し佐久の草笛
 千曲川いざよふ波の
 岸近き宿にのぼりつ
 濁り酒濁れる飲みて
 草枕しばし慰む 

 

 

とりあえず、続編や『千曲川スケッチ』は脇に置いて、この詩だけをよく読んでみたいと思います。

 

文語定型詩、五七調です。

ところが、リズムに乗ってしまうと、言葉が上滑りに滑っていきます。

イメージをもたらさない。

だから、リズムの良さ、という風に定型詩を紹介するのは、私は気が引けます。

イメージをもたらすような区切り方がいい。

ではそのイメージとは何か。

 

まず、全体の構造として、第1、2連が日中、第3連が夜と、時間を隔てています。

ここに、時間の変化を念頭に置いておきます。

 

次に、主人公となるのは「遊子」、旅人である「私」です。

しかし、第1連第1、2行では、「雲白く遊子悲しむ」と、客観化されている。

「小諸なる古城のほとり」とは地誌的情報で、いわば開けた大きな視界を示し、その広大な世界の中に一人たたずむ「遊子」を見せています。

 

映像的です。

 

その開けた視界は、徐々に狭まり、第3連で宿の一室にまで収斂していきます。

その仲介を果たすのは急ぐ旅人の群れです。

 

次に各連がもつイメージ、つまり五感との関わりを見ていきたいと思います。

この詩を読むと、五感がきちんと使い分けられていることに気がつきます。

 

第1連は「視覚」です。

とくに「色」を表す言葉が多い。

「雲白く」「緑なす蘩蔞」「若草」「しろがねの衾の岡辺」、いずれも視覚に訴える言葉です。

当然、雲が白い以上、空は青いのです。

 

第2連は「視覚」「嗅覚」「触覚」です。

「視覚」はやはり色に注目するなら、「霞み」、麦の「わづかに青し」、

「嗅覚」は「野に満つる香」、

「触覚」は「あたたかき光」。

直接「光」を触れることはできないのですが、肌が感じる温度ですから、

五感で言えば触覚になります。

 

第3連は「聴覚」「味覚」です。

「聴覚」は「佐久の草笛」と「いざよふ波」

「味覚」は「濁り酒」。

 

第1、2連と第3連の違いは時間のみならず、

書かれた言葉のもたらす五感ともつながっています。

 

しかし、注意しなければなりません。

第1、2連で用いられる五感を示す言葉の間には、

れっきとした区別が設けられています。

まず、自分の身の周りは否定されています。

 

「緑なす蘩蔞は萌えず」=足元

「若草もしくによしなし」=足元

「野に満つる香も知らず」=嗅覚

 

これらは自分に近い範囲に存在するべきものの否定です。

つまり、あるべきものがない、あってほしいものがないことを示します。

欠乏の感覚です。

 

しかし、遠景に存在するものは確かな存在感を持ちます。

 

「雲白く」=天空

「しろがねの衾の岡辺」=遠望

「あたたかき光はあれど」=天空

 

第2連に主に現れる中景の描写は、微妙な存在感を示します。

「淺くのみ春は霞みて」=視覚

「麥の色わづかに青し」=視覚

 

第1、2連では確かなものは遠くにあり、自分に近づくほど存在は希薄になっていくのです。

それは当然、遊子の「悲しみ」を反映しています。

 

第3連は、それをきれいに裏返します。

つまり、身近なものが確かな存在を示し、遠くのものは消えていくのです。

 

遠景にあるのは浅間山です。

「暮れ行けば淺間は見えず」=視覚

 

中景では草笛というか細いものが、頼りなく聞こえてきます。

「歌哀し佐久の草笛」=聴覚

 

逆に身近なものは確かになっていきます。

「千曲川いざよふ波の岸近き宿」

「濁り酒」=味覚

 

最終的に味覚という最も直接的な感覚に落ちて、

初めて主人公は自分の「身」を感じているといってもよいでしょう。

ただ、いずれにせよ、視界に入るすべての世界との繋がりは断ち切られたままなのです。

 

さらに、【動き】に注意してみましょう。

 

第1連「淡雪流る」=遠景の移動

第2連「道を急ぎぬ」=中景の移動

第3連「千曲川いざよふ波」=近景の移動

 

つまり、次第に動くものは、自分に近づいてきます。

いや、自分に近づいてきたというよりは、彼が歩き出したのです。

そして、旅人という動き続ける彼自身は、その絶えず動き続けるものの中で、

一人「草枕しばし慰む」と止まるのです。

 

そう考えると、この詩が綿密に、幾何学的に構成された詩だと分かります。

五感のもたらすイメージ、移動と停滞の運動性、

これらを頭に入れて読むと、この詩は「明治の名詩」のごとき黴臭い冠を取り外して、

生々しい実感をともなって私たちの前に立ち現れてきます。

 

この「悲しみ」が何かは分かりません。

しかし、世界からどこか距離を覚え、孤独の中にいる自分を見つめている。

その構図は、私たちそれぞれの悲しみの受け皿になるのだと言えます。