KAATで塩田千春展を見てきました。
ヴェネツィアビエンナーレの日本館の帰国展示です。
無数に張り巡らされた赤い毛糸の幕壁がいくつかの部屋をつくり、古びた五つの白い扉がその壁を区切り、奥の鏡の手前には毛糸に無数の鍵がぶら下がっています。
毛糸の迷路と、その部屋を通す扉。
写真可ということで、みんなパチパチ撮っていました。
私も楽しく撮りました。
ひとしきり撮り終えると、壁に沿ったひな壇に座ってぼんやり見ていました。
正直なところ、現代アートの見方など私にはちっともないのです。
ただ、赤い毛糸が巨大なあやとりか、CGのモデルのように編まれて、
床から天井まで美しいカーヴを描くのは圧巻で、
近くで見ても文字通りのテクスチュアを楽しめるし、
遠くから見ればもつれた糸が半透明の壁を作り、反対側にいる人までを垣間みさせます。
ずーっとぼーっと見ていたのですが、毛糸の組みあがった迷路じみた空間、という以上の何も出てこない。
ところが、ある瞬間から、この作品が生き物のように躍動しはじめました。
それはこんな事です。
一人の女の子がお父さんに連れられて、ドアを片っ端から開け、そして閉じていました。
一つのドアの立て付けが悪いのか、なかなか閉まらず、女の子はずっとドアノブをガチャガチャやっています。
お父さんは、そういうものだからほっときなさい、と言って連れて行こうとしますが、
女の子は頑としてきかず、むきになってきます。
ああ、危ないな、と思いました。
なにしろ、糸が床に鋲で留めてあるだけなんです。
女の子は、ドアが閉まらないことに腹を立て、両親の言うことも聴きたくないとみえて、だだをこねたり、走り出したりします。
ああ、危ない、危ない。
その瞬間、作品が妙な緊張感を帯び始めました。
文字通りぴんと糸が張るような緊張感です。
それはただ壊れるとか、危ない、とかというのとは違う。
作品というのは常に破滅を内包しているというギリギリの存在感です。
毛糸という素材がいっそうその危うさを露わにします。
女の子としては、きちんと閉めたいという正しいはずの欲求が否定されたことに対する憤りなのでしょう。
普段は、ドアはきちんと閉めろと言われているはずなのに、それがここでは通用しないという不条理。
彼女は、作品を作品として見ず、あくまで日常の延長として作品に関わっています。
そうすると、この毛糸の部屋は彼女の家を覗き見るような感覚になります。
女の子の憤りが毛糸のテクスチュアをピリピリと顫動させます。
ああ、作品が生き始めた、この作品の場というのは、
日常が持ち込まれたとき、初めて動き始める。
そうしてしばらく見ていると、
扉を開ける人々の一つ一つの動作が気になってきます。
ある人は、こわごわと開け、
ある人は、何か後ろめたい思いでもあるように、こっそりと開け、
ある人は、秘密の部屋を覗いてやろうという感じに開け、
ある人は、懐かしい昔の家に帰ってきたように開け、
ある人は、ただ開ける。
写真をあれこれ撮る人は、ああ、観光客の態度だ。
その都度、作品は違う表情を見せ始めます。
そこを通る人の思考が糸電話の糸のようにざわめきます。
こうなるともう面白くてたまらない。
早く誰か通れ、と思う。
そうすると、物語が生み出されていきます。
ぶら下がる鍵はこの人にとって何か、
作品を通すと、作品を見る人が見られる作品に変わっていく。
それによって、この無数の糸の張り巡らされた空間は意味を持ち始めるのでしょう。
その意味が何かというのは、一つに絞り込むことはできないのですが、
ざわめき、震えるもの、それはその時々の人の心のうちかもしれないし、
それが既視感や習慣、幼児体験のようなものと無意識に結びついているのかもしれない。
作品は、その人々の心の襞の現れとなり、赤い毛糸は血管とも神経ともしれない隠喩となっていく。
当然、作品を体験する自分自身の心の内もそこに現れるのです。
ところが、写真を熱心に撮っている人ほど、作品を体験していないのです。
見ていれば分かります、彼らと作品の間には、人間と毛糸の壁しか見えません。
そして、それも作品の一部として取り込まれていることにはついに気づかないままなのです。
毛糸の壁が冷たいまま、動かないのを彼らは気づかない。
案外、子供のほうがそういうことには敏感かもしれません。