神奈川県民ホールで上演されたヴァーグナーの初期オペラ《さまよえるオランダ人》を観てきました。
さる新聞評で酷評されていた舞台です。

http://www.kanagawa-kenminhall.com/detail?id=33909

たとえば、こんな感じです。

「悲劇のヒロイン、ゼンタが海に飛び込むと、アニメ仕立ての海賊船が船尾からぼちゃんと沈んでゲームオーバー。そんなたわいもない演出の「さまよえるオランダ人」。あまりの安っぽさに、ぽかんと呆(あき)れるほかない新演出だった。」

ちょっと観る前からどきどきします、何しろ演出はミヒャエル・ハンペです。
そこまで言われるほどの舞台を作ってしまったのか。
やはり年なのか。

で、実際に舞台を観たところの感想は、「え、それほど安っぽくないけど」でした。

「その高解像度はいかにも今のゲーム世代に受けそうだが、スムーズな場面転換も、キャラが次のステージへ進むだけの感触。」

とも書いてあったので、なるほど、これは私が若いということだな、と。
でも私、ゲームしたことないのです。
FFとかそんな感じなんだろうな、と思いつつ、ゲーム音痴なので私は分かりません。

ただ、曲面のスクリーンいっぱいに映し出される海景や幽霊船、星空は、
私には別の印象を与えました。
ああ、これはパノラマだ。
19世紀のヨーロッパ諸都市を席巻した光学的見世物です。
あるいは、舞台セットと重なって背景が動くというのならディオラマか。

そもそも、ヴァーグナーのオペラには無茶苦茶なト書きが多く、
現在の3Dを駆使しないとできないようなト書きがあります。
《オランダ人》でも最後の場面は、波の間から光に包まれたゼンタとオランダ人の姿が天に昇っていく、という指示。
19世紀、どうやってやれというのか。
ヴァーグナーのト書きは現実的なものもありますが、自分の頭の中にあるイメージを書き、音楽の説明になるように書く傾向があります。
もし、プロジェクションマッピングや今回の投影技術を知ったら、
ヴァーグナーは飛び上がって喜んで、ものすごい凝ったことを、
Perfumeのライブ並みのことくらいはさせたでしょう。

その意味で、この最新技術の使用は、私には19世紀的な見世物、あるいはアドルノの言うところのファンタスマゴリーの具体化、とうつったのでした。

とはいえ、映像を使うというのはさほど新しいことでもなく、曲面に映し出したことが技術的な面白味であり、曲面ゆえに、船の立体感が出ていたように感じました。


また、演技についても酷評でした。

「日本人歌手たちは、相変わらず両手を広げるか、片手を前に突き出すことを繰り返すだけの退屈な演技。ベテランの演出家であれば、もっと演技指導に身を入れるのが筋ではないか。」

これもそこまでひどいものではありませんでした。
もっとひどい舞台ならいくらでもあげられます。
じゃあ完璧かというとそうでもないのですが、
少なくとも、無意味に、いい加減に腕をひろげたり突き出しているわけではなく、
身振り記号が機能するように配慮されていましたし、
音楽的なタイミングも間違っていませんでした。
19世紀の身振りに由来する正当な職人的仕事でした。

それが、現代の多種多様な舞台からすれば古色蒼然と見えてしまい、
それを批判したくなるというのは致し方ないことです。
とはいえ、私自身はそういう職人芸が好きです、安心して見られるし、見やすい。
こういうのが、オペラの通にはまた我慢ならないところがあるのかもしれません。


ハンペが新たに加えた解釈は一点だけです。

「途中から眠り込んだ舵手(だしゅ)がずっと舞台に残ることから、最後は夢落ちであることが見え透いてしまった段階で失敗だろう。」

これは、失敗です。
いかに名匠といえども、夢オチはよくない。
しかも、ゼンタが海に飛び込み、幽霊船が消えて舵手が目を覚ますと、
そこに船長ダーラントと船員たちが彼を囲んで笑っており、
舵手は「しまった」とばかりに頭を抱える。
これがダメですね。

せめて、原作のト書きにあるように、
のぼってきた朝陽をゼンタとオランダ人の姿 Gestaltとして一人だけが朝陽のほうに向かうくらいにしないといけない。
そうすれば、オランダ人の物語を夢で見た当人だけが知り、
周囲の船員は分からない、というアイロニーが生まれ、
観客も舵手の見ようとしているものを理解できるでしょう。

終演後、山下公園は目の前、汽笛がぼーっと鳴りました。
海を眺めながら、延々と《オランダ人》が流れております、ホヨヘー。