言葉に表しがたいものを前にしたとき、人は黙りこむしかない。

途方もない、巨大な黒々とした岩のような塊が、
前触れもなく、どん、とぶつかってくるようなものを見たとき、
それを「恐怖した」というか「感動した」というかはその体験の質によるが、
その巨大さに対して、「感動した」というのはたったの4文字で言い表されてしまう。
では「すごかった」といってみようか。小文字をいれて5文字だ。
では「ものすごかった」といってみようか、7文字に増えた。
それでは「とてつもなかった」といってみよう、8文字、
「とんでもないものを観た」、11文字
「とてつもなく素晴らしい感動的な」、15文字・・・・・・

・・・足りない。ぜんぜん足りない。

そこで受けた甚大な印象はこれらの陳腐な言葉のうちに、どれほどとどめられるというのだろうか。
もし、その「感動」という常套句を使わないなら、どうか。
襲いかかってきた巨岩が、実は縺れた毛糸玉でできているのだとしたら、
私はその毛糸をほぐし、語れるだけを語るしかない。

さあてと。
実にレトリカルな出だしにしてしまいましたが、こうきたら当然、
「ああ、シェイクスピアを観たのだな」と思っていただけることでしょう。

はい。
「カクシンハン版ジュリアス・シーザー」、千秋楽を観劇しました。
以前、『じゃじゃ馬馴らし』を観たのがカクシンハン・デビューで、
それも素晴らしく痛快無比でしたが、この度の『ジュリアス・シーザー』は破格でした。

緩急自在、観客の鼻面をつかんで引きずり回すような舞台。
鼻面をつかむ手はシェイクスピアかカクシンハンか。
・・・いや、こんな調子のよい口調ではいけない。

カクシンハンの舞台は、
遊びかと思うものがきちんとテクストに書かれた指示であったり、
現代社会風刺を織り込んだかと思えば、それがドラマの内容への的確な導きとなったりする。
「的確な」というのは、そのドラマがアクチュアリティを持つ、現代と何一つ変わらないことを告げるためであり、風刺的な笑いが、引き攣ったまま顔に残るように仕組まれている。
ふざけた笑い、風刺的な笑い、それらはすぐに胸に突き刺さる刃物に変わる。
しかも、ギザギザの刃を持ち、笑ってしまった自分がいたたまれなくなる。
傷口は容易に塞がらない。

その恐ろしい笑いは、あくまでテクストのために存在している。
ふつうの舞台にありがちな、観客向けの安易なサーヴィスでは、決して、ない。
400年前のテクストに内在する、人間の愚かさと愛(かな)しさを語る、常人には耐えがたいほどの冷たく、客観的で、皮肉な言葉をどのようにしたら、現代の人間の、イギリスから時間も距離も遠く離れ、言葉も異なる人種の血に注ぎ込むのか、そのための笑いだ。

それを表現するには、それぞれの俳優の身体に、テクストを血として巡らさなければならない。
そのテクストは慄然とするほど美しい毒薬である。

『ジュリアス・シーザー』の怖いところは、正義の不在である。
全員が何かしら不正に加担しており、すべてにおいて正しいことがない。
誰が悪いのか分からない。
判断がつかないように、徹底して書かれている。
その圧倒的に精緻に組み立てられた混沌が、戯曲で読むだけでもぐるぐると渦巻くのに、それをそのまま表現したような舞台を観たらどうなるか。
号泣(これも陳腐な言葉だ)、宣伝文句でなく、本来の意味で号泣した。
私の生存が脅かされるほどの驚愕だった。

感情のままに書きすぎただろうか。
抽象的すぎるだろうか。
スノッブに書きすぎだろうか。
そうかもしれない。
だが、私が得た「感動」の正体を探ろうと、必死にその糸をほぐそうと、まずその糸口を探そうとしているのだ、許してもらう他ない。

とはいえ、埒も開かない。
抽象的な論理はここまでとして、観たものを語ろう。
長いので、読み飛ばしていただいて構わない。
以下は、私が観たもののメモである。

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ドラマーが舞台の中央に、鳥のケージにようなものに入っている。
シーザーの登場、群衆の雄叫び、戦闘の場面で狂ったようにドラムを叩く。
「軍神マルス」の役名が記されている、なるほど。
しかし、これは新しいつけ加えられた解釈ではない、きちんと台本には「警報 Alarum(元の意味は「武器をとれall'arme」というイタリア語)」とある。
まさに戦闘をドラムが示す。
また、フォリオ版や現行版にはないが、編集者の手によるものか、手元にあるオックスフォード版にはシーザーの最初の登場にも「Loud music」とある。松岡和子氏が原典としているはずのアーデン版第3版には何と書いてあるのか手元にないから分からないが、そういうところもテクストの範囲で舞台に実現しているのである。

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舞台の始まり。
開演前から舞台上で彫刻化して立っていた人物群が、チャイコフスキーの弦楽セレナーデとともに動きだし、中央のシーザーへと向かってかしずこうとする。
(これは昔TVのCMで「上司に恵まれないあなたへ」というのがあったが、それを思い出さずにはいられない、しかもシーザー、最強の上司だ。)

第1幕第1場、フレヴィアスとマララスが尋問をする場面。
あらかじめ観客に手渡した「マイナンバー」を、二人が観客に尋ねる。
冗談めかし、笑いが起こる。
「ジュリアス・シーザーの凱旋を祝うためにここにいる」
と観客が語らされ、みなが手拍子を打ち、シーザーを歓呼する。
私も手を叩いた、こういうときには乗るのが一番だと。
ところが、すぐに二人がその祝祭ムードをひっくり返す。
そのときには、もう遅い、私は自分が群衆の一人になってしまったことに気付く。
観客は観客ではない、目撃者であり、参加者であり、加担者である。

われわれ群衆は、ふたたび後半で、群衆としてブルータスとアントニーの演説を聞く。
舞台上の出来事は、どこか遠い時代の歴史上の話を、遠い昔の詩人が書いた話ではなく、いま、ここにある物語として境界を消してしまう。
確信犯的手管に、ものの見事にはまったものである。

第1幕第2場、シーザーの登場。
けたたましい音楽と、チェ・ゲバラ風に赤い背景に描いたシーザーの肖像が、プロジェクターで無数に舞台上に映し出される。
聴覚的にも視覚的にも、刺激が強い。
その刺激が、シーザーのカリスマ性を保証しているようでもあるし、
そのくせシーザーの言葉は妙に「ふつうの人間」のようでもある。
シーザーの退場後、ブルータスとキャシアスの対話にある、シーザーの虚仮おどしな馬鹿馬鹿しさへの説得力を与える。
ここでキャシアスは言葉巧みに高潔の士ブルータスをシーザー暗殺へといざなおうとする。
しかし、これは『オセロー』のイアーゴーとは異なる。
そこにはシーザーになれなかったキャシアスの野心があるが、同時に単なる奸計だけともいえないところがある。
いかにも悪そうだが、どこか幼稚なところがある。

第1幕第3場、天変地異の夜
一列に石像(当然出演者、みな腹筋が割れていてほれぼれとする)が並び、中央にブルータスが彫刻のようにして立っている。
激しい雨が映し出される。
キャスカが嵐に怯える中、シセローが現れる。
キャスカのこれでもかという大げさで即興的な演技が笑いを呼び、対するシセローがいやに冷静でこれも笑いを誘う。
あまりに逸脱しはじめると、「ブルータスの像」がスリッパで頭をはたく。
これはコントだ。
しかし語られる内容は、暗殺の算段である。
キャスカの怯えは、暗殺に加担するものすべてを引き受けた、心に潜む「不安」である。だから、とても人間らしい。

第2幕第1場、ブルータスの家
ブルータスとルーシアスの会話、ルーシアスの眠たげな様子がいかにも少年らしく、ブルータスが彼を可愛がっているのが分かる。

キャシアスら一党がブルータスの家に現われ、盃を交わし、食事する。
冷えて固くなったナポリタンを必死に頬張りながら、暗殺の手筈を整える。
喋るとスパゲティの切れ端が、口から飛び出る、キタナい。
笑えるのだが、内容が内容である、笑いにくい、だけど笑える。
それは野蛮さを表すのだろうか、正義の不在を解くのだろうか、
シーザー暗殺のときのテロリストの笑いへの伏線だろうか。
あるいは単なる思いつきで面白がって始めた結果か。
そのどれでもないかもしれないし、どれでもあるかもしれない。
少なくとも私は以上のようなことを考えた。

ポーシャの場面は大幅にカットされ、彼女が自傷癖を持った女性に変えられる。
それは後半で、自殺した原因と結びつけられている。
結果としてポーシャはブルータスの妻の印象を強める。
ブルータスは妻に対する愛情と、ローマに対する義務感との間に引裂かれている姿を見せるのである。

第2幕第2場、シーザーの家
シーザーが予言を内心で恐れながら、体面から元老院に行こうとするのをカルパーニアが止める。
言い訳が立つと納得するシーザーの前にディーシアスが登場し、元老院へといざなう。
ディーシアスは元老院が王位を授ける予定であると伝えることでシーザーを釣る。
シーザーは思わずガッツポーズをし、凱旋の際に王冠を三たび受け入れなかった手前、すぐにその身振りを隠す。
ここで、観客はシーザーに王位につく野心があり、ブルータスらの計画に正当性があることを理解する。
しかし、シーザーが王位についたとして、それが圧政になるという保証もない、逆も然り、あくまで「仮定」が物語を進めていく。

第2幕第3場と第3幕第1場(第4場はカット)
アーテミドーラスがシーザー殺害計画を知り、直訴してシーザーに気付かせようとする。
しかし、シーザーが私事は後回しにするという体面づくの言葉で、渡す機会は失われ、手紙はキャシアスの手に渡り、彼はアーテミドーラスの目の前で、その手紙を食べる。

そのまま議会が開始される。
暗殺までの前半部分は脚色がなされ、現代日本の国会中継のパロディとなる。
消費税増税、社会保障費と防衛費、少子化対策とだれか忘れた議員の暴言。
ときの首相そっくりにシーザーが答弁する。
元老院は私たちの世界とつながり、軽い笑いが起きる。
すると、そのまま乱闘になり、シーザーが刺される。
なるほど、揚げ足取りで落とせないときには、テロしかない。
殺害まで高邁な精神を保ったブルータスが、その瞬間、きわめて醜い容貌に変わる。
怖い、実に怖い演出だ。


第3幕第2場
もっとも大事な場面はここだ。
ブルータスが演説し、続いてアントニーが弔辞を述べる。
まさに転換点である、たった一つの言葉で世界の天秤の傾きが変わる。

シーザー殺害者の正当性は、「シーザーが野心を抱いた」という一点に尽き、
アントニーはブルータスらに感謝する素振りをしながら、その「野心」の一点を突く。
彼がブルータスらを「公明正大」と呼ぶ傍らで、シーザーの「野心」の否定にかかる。
その否定が、シーザーが王冠を三たび捨てたことにより、
群衆はその言葉であっさり乗り換える。
たわいもない。
だがそれが群衆であり、我々がまさに現在体験していることだ。

ブルータスが「野心」の根拠としたシーザーの「猿芝居」が、
アントニーによって覆す材料にされる。
これ以上の皮肉はない。
カクシンハンの見せ方は素直だ。
ここは言葉に任せて、余計な演技はつけ加えない。
その判断が実に的確なのだ。

第3幕第3場
詩人のシナがリンチされる。
殺害者の一味のひとりと同じ名前だと言うそれだけのことで、彼は赦免されない。
どこか『時計仕掛けのオレンジ』を連想させるのは、
群衆が白尽くめの衣裳で、理不尽な暴力が振るわれるためだろうか。
だが、これとても現代の日本はまさに同じ状況だ。
詩人であること、それにも意味があるが、ここではやめておく。

第4幕第1場
アントニーとオクタヴィアス、レピドゥスが会議を開く。
オクタヴィアスはパソコンに向かい、殺害者のリストを作り、
三人で討伐の算段をつける。
アントニーの非情さ、冷酷さが次第に募るのは、オクタヴィアスとの対比を後に生むが、同時に続く場面のブルータスとキャシアスとの対比になる。

第4幕第2場
ここは実に見事だった。
ブルータスの「公明正大」さによって自分が糾弾されたと思ったキャシアスが、
まるでだだっ子になって喧嘩をする。
もはや「正当性」は問題にならない。
ただの子供同士の喧嘩になってしまう。
笑えるのだが、第2幕第1場と同様、なんだか笑いきれない。
誰がこの台本から子供じみた演技を引き出すだろう。
しかし、それによってキャシアスとブルータスの「人間くささ」が出てくる。
彼らは異常者でも狂人でもなく、弱い人間だという、「共感」を引き出す。

みなテロリストの格好で、ISを思わせる格好ながら、完全にはそうしない抽象性を残す。
そのバランスも心憎い。

ルーシアスのヘタクソな歌、たしかに台本には歌うとあるが、歌がうまいとは書かれていない、そのヘタな歌を愛おしそうに聴くブルータス。
彼が音楽を愛すると言うより、ルーシアスという少年を愛していることが伝わる。

第5幕第1場
アントニー、オクタヴィアス軍とブルータス、キャシアス軍の対峙。
ここも素直な演出で、突飛なことはしない。
むしろ、最後のキャシアスとブルータスの別れの挨拶の切なさを前面に出す。
「こいつら、いい奴らだ」と観客に思わせれば成功で、実際、そう思わせる。
善悪が縒り縄となる。

第5幕第2場~第4場
戦闘場面が続き、ドラムが凄まじい音で演奏される。
銃撃(みな剣ではなく銃を持っている)だけではない、毒ガスも用いられる。
幅の広いビニールに兵士達が包まれ、窒息死する。
(実際苦しくないだろうか。私はマスクをするだけでも酸欠になるのに…)

目を傷つけられたキャシアスが、ピンダラスの誤解を真に受けて、死を選ぶ。
また、ブルータスも最終的に死を選ぶ。
ここの演出も素直だ、もう言葉が伝わるようにさえすれば、何の問題もない、
そういう演出である。

第5幕第5場
ルーシアスがブルータスの死をアントニーとオクタヴィアスに伝える。
戯曲では、ブルータスの死を助けるのはルーシアスではないが、ルーシアスにすることで第4幕第2場の場面が生きてくる。

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とりとめもなく全幕を略述してみたが、
徒労だったような気がする。
言葉にしてみると、自分の中が空っぽになって、実に寒々しい。

こんなことを書くために、5時間も机に向かっているのか。
書いたことよりも書き漏らしたことの方が多くはないか。
私の感動は何にあったのだろうか。
私に何が分かったのだろうか。

結局のところ、これだけは言えるというのは、
演出家と俳優が、翻訳されてもなお強靭なまま揺るがないシェイクスピアの言葉に身を委ね、その作品のために自分の存在を賭けたということだ。
もちろん、それには強靭な肉体による演技の支えがあってのことであり、
見た目にも美しく作られている。
残念なことに、そういう舞台はことのほか少ない。
とくに・・・いや、やめておこう、他人をあげつらうためにここまで文章を書いたわけではない。

遊んでいるようで、遊んでいない。
押さえるところはきっちり押さえ、
聞かせるところは必ず聞かせる。
書いてみればごく当たり前のことだ。

シェイクスピアという名前に踊らされず、
上段に構えず、知ったかぶりもなく、
私たちと同じ世界のものとして、
それがさまざまな意味として「面白い」ものとして、
弾性を持つ言葉の深みを汲めるだけ汲もうとすること、
そこには並外れた誠実さと、安易な安全な解釈に陥らないための絶え間ない「?」を必要とする。

「読み」の最も優れた例のひとつを私は観たのだ。
それは確信して言える。

・・・夜通し暖を絶やさぬよう熾してあった炭が灰になるように、
私の頭の中も、もう真っ白だ。

夜も白々と明け染めるようだ。

おやすみなさい。