このところ、12月23日の『寿来爺』の事ばかり書いていますが、
来週のことも忘れてはいけない!
そうです、朗読劇『金閣寺』です。

三島由紀夫原作、ヘンネベルク台本、黛敏郎作曲のオペラ《金閣寺》の関連企画です。
12月5、6日に神奈川県民ホール大ホールで上演される黛作品の総決算と言ってもいい《金閣寺》、その字幕に携わりつつ、
その一週間前の11月29日(日)16時から、同じ大ホールで、本番と同じ舞台装置の前で上演される、というなんとも壮大かつ豪華な朗読劇です。


長屋はその台本を書かせていただきました。

三島由紀夫を心から愛する長屋として、これはもう我が技術のすべてを尽くさずにいられようか!
とくに小説『金閣寺』は、私が最初に読んだ三島の小説です。
そこから全集へ、ばーーっと広がっていったわけですが、
端緒に立ち戻り、なおかつ三島の技法へのオマージュにする、
その台本づくりは死に物狂いでうきうきする、辛くも幸福な体験でした。


この朗読劇用台本は、オペラの台本にもとづき、
その設定と幕場構成をまもり(一箇所、順序をかえたところがありますが)、
台本では削られた『金閣寺』の美学の要になる要素を継ぎ足しつつ、
作品として成り立つようにする、というなかなかの力技を披露しています。


1、作品の構成とドラマトゥルギー

三島の原作とヘンネベルクの台本のいちばん大きな差異は、
溝口の障害が、「吃音」ではなく「手の不具」であるということです。
これは大変に違和感をもたらします。

なぜなら、三島の『金閣寺』では
溝口が吃音すなわち音声的(聴覚的)障害ゆえに形のはっきりした建築=金閣の美を理想におき、
柏木が内翻足すなわち目に見える視覚的障害ゆえに形をもたない音楽の美に理想を置いた、
という二項対立が成立しているという前提があります。

これはニーチェの『悲劇の誕生』にある
アポロン対デュオニュソスの対立とコンプレクスをはす違いに絡めたものです。

つまり、内面にひそんで外面に現れず、世界と自分の間に誤差がつねに生じている溝口は、
建築に代表されるアポロン的な美に惹かれます。
対して、外面に目に見える形で障害が存在している柏木は、
音楽に代表される陶酔の神デュオニュソス的な美に惹かれます。

ところが、ヘンネベルクの台本では、溝口も柏木も同種の障害になるために、
この二項対立が成立しなくなります。

私がしばらく悩んだ末、得た結論はこうでした。

「溝口以外の人物につねに対立構図を作るのが台本の基本関係である。」

要するに、溝口を頂点に置く三角関係がいたるところに生じるということです。

溝口:柏木vs鶴川
溝口:父vs母→男vs女→僧vs金閣寺
溝口:有為子(≒女)vs母(≒娼婦)→処女性vs母性→金閣の外側vs金閣の内側


登場人物の二項対立は、より抽象化していくと、金閣寺にたどり着きます。
金閣寺は、男性社会の僧坊にあって女性性の象徴として機能します。

この溝口を頂点とした底辺を構成する二項対立は、
最終的に収束して溝口に対峙します。
それが第3幕第7場のアンサンブルです。

それまで三角関係として他者化していた対立が超越的に一体化することに
理念的なドラマが生じます。
溝口が一気呵成にその一体化したすべての他者を否定しにかかります。

三角関係となって直接対峙することのなかった金閣寺に向かって、
溝口が正面切って向き合うことになります。

この「三角関係→対決」という構図は、オペラの常套的な構図でもあります。
ヘンネベルクは、おそらく溝口vs柏木の構図だけでは、物語の対立構造が不十分だと判断し、
三角関係化をはかったのだと推測します。

そこまで考えなければ、三島の言葉を台本に組み合わせていくことはできません。
そのうえで、三島が『金閣寺』で重要なモティーフとして提示しながら
台本に反映されなかった部分を足すのです。

たとえば、澁澤龍彦が「内部と外部の弁証法」と呼んだところの、
五月の花の比喩と空襲での人間の内臓に対する一節です。
これがおそらく三島の結論の先取りになっているのですが、
朗読劇台本ではどうしたのか、これはもう、聞きながら確かめていただくのが一番ですよね。
(宣伝です、宣伝、来て、確かめて!)


2、言葉のリズムと韻

三島は文体の人です。
それを無視するわけにはいきません。

『金閣寺』冒頭は妙に読点の多い文が続きます。
それは一口に言って、「吃音の語り」を再現しているのです。
読者が最初なめらかに読むことを妨げ、
つねにとぎれとぎれになって読むことを期待しているのです。


三島はそういう人です。


戯曲でも韻律をもちます、とくに頭韻や文節毎の母音連関をもたせます。
たとえば今度ひさびさに上演される『癩王のテラス』では最後に精神と肉体の対話があります。
その最後の台詞を見てみましょう。

「見ろ。精神は死んだ。めくるめく青空よ。孔雀椰子よ。檳榔樹よ。美しい翼の鳥たちよ。これらに守られたバイヨンよ。俺はふたたびこの国をしろしめす。青春こそ不滅、肉体こそ不死なのだ。…俺は勝った。なぜなら俺こそがバイヨンだからだ。」

各文節の音だけをとりだすと、次のようになります。

イ。→エ→イ。→エ→ア。→ク。→イ。→ウ→ウ→オ。→オ→ア→ア。→オ→ウ→オ→イ。→エ→ウ、→イ→ウ。…オ→ア。→ア→オ→ア。

最初、イの音が多かった所が次第に減り、代わりにオとアが増えます。
そのきっかけは「これらに守られたバイヨンよ」であり、
ようするにこの開かれた音に向かって音韻上のクレッシェンドを図っています。
その「バイヨン」には「ア」と「オ」が内包され、「オ」の音は「俺」につながります。
つまり、音でも「俺」と「バイヨン」は一体化していくのです。
さらに、「ア」は高く、「オ」は低く、その幅が大きくなるので、
一気に上がったり下がったりする印象を与えます。

さらに、「シ」という言葉が文中に8回用いられます。
助詞・助動詞の言葉を抜くと、最多です。
これは「シ=死」を表します。
そして、最終的に「不死」として、「死」を否定する方向へと言葉を運ぶ、
「しろしめす」はその予兆となります。


どうです、これが三島の技巧です。
その音の繋がりに意識をむければ、そのリズムや早さも分かってきます。


私もやってみましたとも。
たとえば、第2幕第7場、溝口のもとに柏木が鶴川自死の報を告げにくるところ。

柏木「鶴川が死んだよ。今、その知らせが来た。自殺したんだ、旅館の窓から身を投げた。」
(イの音に注目、「死」「今」「知らせ」「来た」「自殺」「した」「身」)
溝口「気が違ったのか。」
(イの音に注目、「気」「違った」)
柏木「いや、正気さ。」
(イの音に注目、「いや」「正気(イ)」※最後は前の溝口の台詞からつながります)
溝口「どうしたら僕は助けられたんだろう。」
(オの音に注目、「どう」「僕」→オは沈み込むような音、「シ」から離れようとしながら、「どうしたら」と「シ」が組み込まれる)
柏木「君は偽っていただろ。妊娠していた娼婦の腹を蹴飛ばして流産させたくせに、君は自分のしたことを白状しなかった。」
(イの音に注目、「君」「偽って」「いた」「妊娠(シも)」「娼婦(ショ)「君」「自分」「した」「しなかった」)=イの音をたたみかけていきます。さらに、「シ」と「妊娠」が重なるようにする。そして、「僕」とオ音でそらした溝口を、「君」とイ音に引き戻す。
溝口「金閣は永らえているのに、鶴川が灰になる。」
(イの音に注目、「金閣」)

お分かりでしょうか。鶴川の「死(シ)」はさまざまなイ音を通って最終的に溝口の「金閣(キ)」に結びつくのです。
鶴川の死を柏木は溝口に責任の一端があると追究します。
その音の連射を溝口は金閣に責任転嫁していくのです。

これを三島への愛と言わずして何と言おう!!!!!
全編でこういうことをしています。


死に物狂いでうきうきした、というのはこういうわけです。
ね、気になりますでしょう?
(ここまで読んだ人は、読む勇気を持った人は。)

戯曲の言葉は音にしてはじめて言葉になるのですから、
ぜひぜひぜひぜひお越しください。

オペラの本番当日のチケットをお持ちの方は無料(なんという太っ腹!)、
それ以外の方はたったの500円です。


もちろん、オペラのほうもぜひご覧ください。
演奏、演出、舞台美術、なにひとつ欠けることのない、
興奮を覚えずにはいられない美的な舞台になることでしょう。

私はそちらでは字幕をやっています、
上演に恥じぬよう、いろいろ文体をあやつっています。

そちらもお楽しみに。

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日本語による朗読劇『金閣寺』

【日時】
2015年11月29日(日)16:00開演

【会場】
神奈川県民ホール 大ホール
http://www.kanagawa-kenminhall.com/access

【料金】
500円
(予約不要・当日現金にてお支払いください)
※小学生~高校生、オペラチケット購入者は無料(学生証、チケットを要提示)

【演出】
田尾下哲、田丸一宏

【台本】
長屋晃一

【出演】
山﨑将平(溝口)
岸田研二(父)
白木原しのぶ(母)
安藤幹純(若い男)
小林裕(道詮和尚)
今村洋一(鶴川)
武田優子(女)
岩崎雄大(柏木)
黒木佳奈(娼婦)
藤村はるか(有為子)

オペラ『金閣寺』特設webサイト↓
http://www.kanagawa-kenminhall.com/kinkakuji/


朗読劇『金閣寺』↓
http://www.kanagawa-kenminhall.com/detail?id=33955