マリア・ジョアン・ピリスとアントニオ・メネセスの演奏会に行きました。

ピリスは、私が最も好きなピアニストのひとりです。

曲目はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番、
チェロ・ソナタ第2、3番、
バッハの無伴奏チェロ組曲第2番。

感想を書くというのがいかに難しいか。
手が動かなくなります。
陳腐な言葉をあえて使わせてもらうなら、
心の洗われる演奏、天にも昇る心地、自然な清冽な音、
アンサンブルの愉悦・・・はあ。
演奏会が終わってもなお何度も何度もその音を繰り返さずにいられない、
あまりこういう興奮を書いても読む方はいい迷惑で面白くないですが。
ようするにそれは「音楽」でした。
それでこの感想はおしまい。


それより、気になったことがあるのです。
プログラム・ノートです。
まあ、こういう室内楽の演奏会にありがちな、
どこの誰とも知れないわけの分からない「音楽学/音楽評論」を名乗る某かの文章ですが、
これが実にひどい。
ひどいというレベルではない、劣悪。
いまさら、こういう名演奏家のプログラムにこんな杜撰な原稿を載せることが許されるとはちょっと信じがたい。

たとえば、です。

ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第2番の一部。

「ゆっくりしたテンポの緩徐楽章がなく、一気に聴かせてしまうような味わいを持っています。」

この文に問題を感じないとしたら、中学生からやり直した方がよい。
まず、「一気に聴かせてしまうような」の「ような」とは比喩?例示?
どんな意味合いでこの助動詞を使っているのでしょう。
「ような」ということは、一気に聴かせないということです。

しかも、「味わい」は大抵ゆっくりした噛みしめたくなるような音楽(この場合の「ような」は例示)に使うものであって、「一気に聴かせる」ものに使うことはまずないでしょう。
さらに、「持ってます」とは何か、所有物か。
そもそも、この一文の後半はいるのか?

もっとひどいのはバッハの無伴奏チェロ組曲第2番の文。

「のびやかな音の運びが連なりました。」


バッハの無伴奏チェロ組曲で、のびやかな音が連ならないものを挙げてみろ!
というよりも、「のびやかな音の運び」とは何でしょう。

他にもいろいろあります。

「晴朗な叙情性と軽やかさを兼ね備えつつも、どこまでも深い諦観を持つ作品で、形式の縛りを解かれた音楽が自由にはばたくのです。」(ベートーヴェン、ピアノ・ソナタ32番)
→鳩か!

「主題の展開にフーガが使われました。」(同上)
→非常に部分的にです。

「バロック時代の作曲法であるフーガが、見事にベートーヴェンの言葉となって、弾くもの聴くものに静かにしみ込んできます。」(同上)
→いや、言葉じゃない、音楽です。静かに?Allegro con brio ed appassionatoで静かに?

「神秘的に音楽が飛翔し、すべての呪縛から解き放たれた響きが昇華されます。」(同上)
→宗教キターー!

「燦々と太陽が照る晴れやかな音楽にあふれていて、細部まで手のこんだ造形がほどこされました。」(チェロ・ソナタ第3番)
→さわやか三組?造形って彫刻か?ベートーヴェンが彫刻家だったのか、それともビュランで楽譜を彫版したのか?


たとえば、ブログに感想で上のようなことを書きたければ書けばいいと思うのです。
(日本語の能力は別としても)

しかし、演奏会の曲目解説というのは、個人の印象や思い込みや感想を書き込む場所ではないと思うのです。
まず、この執筆者は楽譜を読まずに、インターネットや解説本やCDのブックレットから言葉を借りまくっているのが見え見えです。
それも借りてきているのは一時代前かそれ以前の文章です。
今時、Wikipediaでももう少しましです(それでもWikipediaを引けばいいと言っているのではありませんし、ひどいことに変わりはないのですが)。


こういうことにひどく目くじらを立てるべきではないのかもしれません。
しょせんは解説、消えものだと割り切ってしまえばよいのかもしれません。
でも、その演奏会が自分に特別なもので、プログラムを記念にとっておく人もいるかもしれません。
演奏の前に、その曲の背景やどんな聴きどころがあるのかを知りたいと思うかもしれません。
それが、この有様では、あまりに情けないではないですか。

最上級のステーキの付け合わせが貧相な冷凍野菜だったらがっかりしませんか?
それと同じです。
私は、曲目解説はメインディッシュに付け添える彩りのようなものだと思います。
しかし、それがその皿の印象を決定づけてしまいかねないのです。


コンサートや観劇というのは、ただ観て聴けばいい、というのではなく、
その会場に行くまで、その中での過ごし、帰るまでをすべて考えた「物語」を作らなくてはならない。
私はそう信じています。
たかが解説であれ、そこに手を抜いて(お金をけちって)安普請のヘタなものをおけば台無しになるのです。

読んだうえで、音楽に入り込み、帰るときには邪魔にならずにその感想を語るための手がかりにするか、それともすっかり忘れている、そういう透明度の高い文章こそが解説に求められているのではないか。
あるいは、会場では流して読み、終わった後で改めて読み直して、新しい何かを知る、そんな充実した解説が必要ではないか。

今回のこの演奏家のプログラム・ノートは、
言葉を商う者として、どうしてもやはり看過することはできませんでした。
多くの人も分かっているのかもしれません。
こんなものに何の価値もないと言うのを言わずにいてあげているだけなのかもしれません。
でも、こういうものを許してはいけないと思うのです。

作品に対しても、演奏家に対しても、聴衆に対しても、
誰に対しても誠実でないものは、プロのものであってはならないはずです。