カクシンハンの舞台『じゃじゃ馬ならし』を観てきました。
渋谷のギャラリー・ル・デコという、明治通沿いにある一棟全体がギャラリーになった建物です。
ギャラリーですから小さな空間です、ぎりぎりです。
熱気が大変に高い、電力の都合から冷房も切られます、役者は汗だくです。
疾駆する汗血馬のようなエネルギーの舞台でした。

実に実に痛快無比、抱腹絶倒、
これほどシェイクスピアで笑ったことがかつてあったろうか。


シェイクスピアの喜劇『じゃじゃ馬ならし』は本編全体が劇中劇という体裁です。
スライという寝ている酔っぱらいを見つけて、領主だと思わせる悪戯をしかけ、
彼に見せる劇中劇という体裁をとっています。

それゆえ、じゃじゃ馬カタリーナと大人しい妹ビアンカ、
カタリーナに求婚するペトルーキオ、ビアンカへの求婚者たち、
荒唐無稽にも思える舞台は、あくまで「芝居」として観客に提示されます。

それはともかく、この「芝居」は男性が女性をしつけるのが筋だと思うと大きな間違いです。

ペトルーキオは暴君に見えながら、持参金目当てと言いながら、口先だけと言いながら、
カタリーナに語りかける愛の言葉は、
その他のビアンカの求婚者の誰よりも美しい言葉です。

そして、他の求婚者たちは女性への愛を金銭の量で示そうとします。
いつのまにか、本当に愛している人物が逆転するのです。
むしろ、取り繕っていた世間の常識が、
非常識によってその薄汚さを暴かれるのだと言ってもよい。

シェイクスピアを心底おそろしい、と思うのはこんなときです。


この舞台では、登場人物たちがたえず棒馬にまたがりながら、乗馬のステップをとり続けます。
ペトルーキオはグラサンで
後半はボクサーパンツ一丁で過ごします。
バプティスタ役は、偽ヴィンセンショー&バプティスタの
スラップスティックな一人二役早替わりを行います。

何度も役者が半分素に戻り、
観客に話しかけ、
滑稽で
汗まみれで
渦を巻くように
狭い空間を走り回ります。

それでも、一切シェイクスピアの舞台としてぶれることがありません。
何よりも、物語が段違いに強靭です。
どんなに遊んだって、自由にふるまったって、結局シェイクスピアなのだ。

シェイクスピアを心底おそろしい、と思うのはこんなときです。


そして、それだけ自由にやってもシェイクスピアであり続けるのは、
自由にやっているようでありながら、劇の則を決して外さない、
カクシンハンの舞台が「正当」なのだと分かります。
読み込んだ上で、遊べるだけ遊ぶ、それが舞台を観る楽しみでなくて何でしょう!

舞台の終わりには、シェイクスピアの原作にはないエピローグが付されていますが、
それによって、劇中劇の性格を強める一方、
それが「芝居」として現実にあったのか、
それとも酔夢の中の幻であったのか分からなくする、
「実と虚」のぐるぐる巡りこそがシェイクスピアの劇です。

台詞の中をこの実と虚がめまぐるしく電流のように駆け抜け、
観客の頭を引っ掻き回し、
現実の柔らかな覆いをひっぺがすのです。
そうして、帰るときには抱腹絶倒していた安逸な自分自身の隙間に
冷たい何か恐ろしいものがさっとよぎって、愕然としてこの世界を見渡すことになるのです。