すっかり佐野研二郎の話題でいっぱいで、
私の周りにも擁護する人と否定する人と両方います。


掘れば掘るほど出てくるというのか、
さすがネットのまとめサイトは名のことだけあってまとめるのが早いですね。
私も見てみて、半分くらいはアウトだな、と思いました。
逆に半分くらいはグレーゾーンか、セーフだと思ったということです。

では、何がセーフで何がアウトに思われたのか、
そのことを考えるのは、決して無意味なことではないでしょう。


今回の事件(といっても差し支えないでしょう)の問題点は、
「デザイン」することと「オリジナル」との関係が曖昧であることだと、
語る人があります。

あるいは、日本はそもそもあるものに賛嘆や敬意の念をいだくと、
それを「うつす」ということで敬意に代えるのだという意見もあります。


しかし、実のところ、それほど深い話でもないのだと思います。
しかし、その根底には実に深いものがあるとも思うのです。


あえて、後者をたどることにしましょう。
まず考えるのは言葉です。
三つに絞るなら、オリジナル、デザイン、アート、という言葉です。

1、ORIGIN
オリジナルとは、名詞の「オリジン」による形容詞形であり、
語源はラテン語の「oriri=太陽が昇る、始まる」です。
「horizon=地平線」と、「orient=東方の」と同じです。

名詞のoriginの意味をoxford dictionaryで引くと、
最初に「何かが始まったり、立ち上ったり、由来となる地点(point or place)」という意味が出てきます。

ということは、私たちが普段、オリジナルとかオリジナリティが高いとか言っている言葉は、
比喩的に用いられていることが分かります。

「何かの端緒となること」、それがoriginあるいはoriginalの語源的な意味で、
オリジナルという言葉を使うためには、
ある分野のある仕事において「開拓者」の面を持つことが求められているのです。


2、DESIGN
次に、デザインとは「de(下に)+sign(印をつける)」というラテン語に由来し、
「下地を描く」「設計する」だとジーニアスの英和辞典には書かれています。
ということは、頭の中にある何かを、実際の地に印づける、ということです。

逆に、話題になっていた「トレース」はこの「デザイン」に含まれないことが分かります。
ちなみにtraceは「痕跡」を意味し、痕跡をつける原因となるラテン語の「trahere=引っ張る」が語源であり、トラクターも語源が同じです。
その轍の跡をたどることがトレースで、上記のデザインやオリジンとは相容れない言葉です。


3、ART
次に、アートとはラテン語の「ars=技術・技能」に由来します。
しかし、それが「芸術」を意味するようになったのは近世以降で、それまでは「技術」という意味を担っていました。
ちなみにoxford dictionaryには「芸術」の意味として次のように書かれています。

The expression or application of human creative skill and imagination, typically in a visual form such as painting or sculpture, producing works to be appreciated primarily for their beauty or emotional power:
(http://www.oxforddictionaries.com/definition/english/art)

その際、「芸術」の説明が上のように書かれていることは示唆的です。
それは何よりも「skill」だという、artの語源が刻まれ、同時にskillのみではなくimaginationが必要だということが分かります。

上の記述は、「デザイン」の意味とも重なってくると言えます。

ただ、このアートという言葉を深入りしていくと、大変なことになりますので、そこはあえてのスルーにしましょう。
(膨大な書物と考察がすでにありますから、そちらをご参照ください。)


4、ロジックの放置
これで「オリジナルのデザイン」という表現が、
いかに危うい内容を含んでいるか、分かると思います。
「自分が最初に考え出し、地平を切り開くべき、イメージの表象である」と宣言した以上、
何かと少しでも似ていたら、アウトです。

いや、そんな語源をたどらなくても、という人もあるかもしれませんが、
この語源的な意味が、これらの言葉を母語として使う文化圏の人たちのロジックの根底にあるのです。


長々と、語源とその意味を述べるのは、その言葉をきちんと考えようとしたとき、
「言葉」や「文法」には、その言語を母語とする民族の思考が織り込まれているからであり、
それを無視して何かを語るというのは、何も語らないに等しいのです。

語るための道具を揃え、それを相応しい形にしていく作業が文章を書くということです。
そのために、うかつなコピペや、根拠のないところからの引用は慎まなければならない、
それはものを作る人の良心であるべきです。

同様に、何かをデザインする人にまず要求されるのは、「技術」と「知識」です。
その際に、フリー素材や個人のホームページやブログから写真を「trace」するというのは、
プロの仕事ではない、と断言できます。


言葉にせよ、「デザイン」にせよ、私たちは多くのことを共有しています。
いえ、9割くらいは共有しているもので生活しているといって差し支えない。
しかし、その残りの1割のなかで、どんな新しい面を見せるか、
そこに「オリジナル」の重要さがあります。


私のこの日記にしたって、おそらく「オリジナル」と「デザイン」と「アート」について、
語源からこの問題を取り上げている人は、まずいないのではないかと思います。
ほとんど当たり前のこの作業が、ほとんどの人にとって当たり前になっていないことに、
私は驚愕し、恐怖すら覚えます。

なぜなら、この問題に対する意見が、「似ている」とか「パクリ」といった
「感想」あるいは「印象」に過ぎないからです。

逆に、これらの言葉を意識的に考えていないような人が、
他者の責任を追及することなどはあってはならないのです。
おそらく、彼の「デザイン」を「パクリ」だという人たちの多くが、
自分で何かを新しく作ることへの苦労を知らない人、あるいは知りかけて尻尾を巻いて逃げ出した人であろうことは容易に想像がつきます。

5、名を負う、ということ
佐野氏の今回の問題は、オリンピックが「国際的な場」であった、さらに言えばヨーロッパ言語を母語とする人たちを中心とした大会であることを日本が見失っているということにあります。

正直なところ、一地方的な日本国内のさらに小さなデザインの「トレース」は、
共有の範囲内である場合が多々あります。
(ただ、作り手の倫理としてどこまでそれを許すかは別問題です)
しかも、作家の名前を出さず、その「デザイン」されたものだけが出回る分には、
あまり問題にはならないでしょう。

なぜなら、私たちは多くのデザインとコンセプトを共有し、
あるデザインが優れていれば、模倣者が出ることは想像がつくからです。
そして、その汎用性を許せない狭量なデザインは、結局長もちしません。

それに、依頼者の側が、いい、と思うものはだいたい似たもので、
斬新なものを求めていない場合には、既存の何かに似てくるのはやむを得ない。
そういうのも仕事であり、商売ですから、依頼者の側の要求に応える必要があり、
否応なく自分のものではない仕事になることもあり得ます。
(それでもどこかに自分らしさを忍ばせるのが作家ですし、
 自分の個性というものが無意識にでも反映されるものです。
 それがプロとアマチュアの差です。
 佐野氏はプロの仕事をしなかったと言えば、一部の仕事ではプロではなかった。
 サングラスぐらい自分で描け、渋谷の写真くらいスタッフを使って撮りにいかせろ、
 と言いたくなります。)


しかし、今回の問題はそれとは二つの点で異なります。
一つは「佐野研二郎」という「サイン」が記されていることです。
もう一つはオリンピックという場だということです。

彼が無名氏として仕事をしていた場合には、責めきれない側面があります。
ところが、彼は「サイン」したのです。
サインは「sign」であり、その仕事を他の人から分別する「記号」です。
「de-sign」した以上、その名を負わなければなりません。


そして、その名前が出るのは国際大会であるのですから、
それが語源的な意味での「オリジナル」でなければなりません。
このところの日本の様子を見ていると、
オリンピックを何か、国内大会のような閉鎖的な態度でいる気がしてなりません。

ザハ・ハディッド氏の建築案を反故にするのも、
国際的な日本の面子をつぶして、国内需要ばかりを見ている現れでしょう。

かつての東京オリンピックのデザインを復活させればいい、というのも
愚の骨頂と言わずにいられない態度で、要するに日本にはもう新しいものを創るだけの何もない、
と宣言するようなものです。


何がセーフで何がアウトか。
それは、名前を記すか否か、その名前を出す場所によって変わってきます。
同時に、プロとして、あるものを作る際の自意識や線引きとも関わってきます。

自分の作ってきた仕事の延長にそれは位置できるかどうか、
保身ではなく本当に自分のものであると胸を張れるか、
あるものの影響を受けつつも、そこに新しい何かをつけ加えられているか、
といった問いを常に自分に向けなければならないのが、作り手の態度です。

誰でもできそうなやっつけ仕事をすることもあるかもしれませんが、
(おもに金銭的な理由から)
それでも自分にしかできない何かを忍び込ませるのが、作り手の態度です。
あるいは、よくも悪くも「自分」になってしまうことが、作り手であると言えましょう。

その「自分」の質が高いか低いか、というところです。
そして、質の低い自分を作ったときに、それを許容できるか否かが、
作り手に問われる問題意識です。


一方で、現今の日本人(受容者・傍観者)の国際意識の欠如は、
やはり「言葉に対する無関心」によるのではないかと危惧します。

言語は、人類が所有する最大の能力であり、その民族の精神のたどった「痕跡」です。
私たちは、言葉を大切にしなくてはなりません。

言葉の上に立って、私たちは自らの名を、
自分の仕事の端に書き込む(de-sign)するのです。


6、補遺
この一連のニュースを見ながら、
いっそのこと問題になる前に、
まとめサイトのように検索の上手な人たちを集めたビジネスを展開すればいいのではないか、
と思いました。

いや、たぶん、コピーライトのうるさい欧米にはすでにあるでしょう。
(日本にもすでにあるかもしれません。)
訴訟になるくらいなら、未然に防ぐ手だてを考えるべきですから。
そして、似た画像や元ネタがあれば、変更するか許諾をとる代行業務を請け負えば、
これからの社会ではかなり有用なのではないか。

この問題を個人攻撃ではなく、日本社会の国際的な信頼、というところに役立ていくことが、
意味のあることだろうと思います。