フローベールの『ボヴァリー夫人』を読み終えました。
一度、前に読みさしのままほったらかしていた上、家にあったはずが探してもなく、
新たに買い直して最初から読みました。

レトリックの明確さ、辛辣さ、周到さ、まったく恐ろしい作品です。
あらゆる登場人物達に向けられた悪意と言ってもいいような批判に満ちており、
あらゆる凡庸さを一刀両断する、いたたまれない。

面白かったのは、ここにメロドラマの身振りがふんだんに利用されており、
またルーアンの劇場で観るドニゼッティの《ランメルモールのルチア》が出てくることです。
その詳細に踏み込むことは全く覚束ないのですが、二、三点だけ。

たとえば、エマを口説くロドルフの身振りにはこんなのがあります。
「ふいに目眩におそわれた人のように顔に手をあてた。そして、その手をエマの手の上にそっと落とした。彼女は手を引っ込めた。」

この芝居がかった身振りを加えることで、口説き文句の胡散臭さは倍増します。
エマはそれに気がつきません。彼女は、芝居の中の人間なのです。
彼女は本気で拒絶のポーズをとります。

誰にどのような言葉遣いでその身振りの描写を与えるか、フローベールは徹底しています。
そのメロドラマ的世界の陳腐さが、その渦中においてはいかに魅力的な幻惑に満ちているか、
芝居がはねればそれまででも、現実に芝居がなだれ込んでいるときには、悲劇が待っている。

現実の耐えがたさを、文学や演劇やにすり替えようとすることで、
テクストの層位が非常に複雑になります。
そういうことは、もういくらも本が出ています、私では太刀打ちできそうにもありません。

劇場のことを知る上では、この小説には面白い場面が作られています。
《ランメルモール》はフランスでは1839年に改訂され、初演されています。
その描写はやはり要を得て簡潔で、実に見事なことこの上ない。

「第一景から聴衆は熱狂した。彼(註:ラガルディなる歌手演ずるエドガー)はリュシーを抱きしめ、そばを離れ、また戻り、絶望の様子を見せた。怒りの叫びをあげ、とまた実に甘美な悲しみのあえぎに変わる。声はすすり泣きと接吻にみちてあらわな首から洩れて出た。」

メロドラマの陳腐さ芬芬たる中で、聴衆も、そして何よりエマは自身の経験を重ね、
感情移入していきます。筋を追おうとするシャルルは全くついていけず、経験もなく、
なんだかよくわからないものが舞台上で展開されている。

オペラの鑑賞者の二つの典型がこの夫婦に現れています。
休憩時間にエマの前にかつてお互いが片思いのまま別れたレオンが現れると、
最大の見せ場である狂乱の場も全く消えてしまう。

いかに感情移入していたとしても、現実の恋に対しては舞台は代用物に過ぎない、
あるいは、一種の教科書として彼らはそのまま舞台を実人生に取り込んでしまっています。
それゆえに、やはり悲劇が起きる。

彼女は砒素を飲み、悶え苦しんで死んでいきます。
ただ、自殺の動機は恋愛のもつれというよりは、その恋愛が引き起こした不渡り手形、
借金が原因になるという、非ロマンティックな現実が待っています。

逆に、シャルルは妻が不倫をしていたことを知って、ショックでこと切れる。
彼の方がメロドラマ的な死を遂げるというのが、実に皮肉です。

フローベールに登場する劇場、演劇的身振りについてはもう少し、いずれ考えてみたいものです。