お風呂用読書にはいつも気を使います。
あまり小難しいと眠くなり、本をずぶ濡れにさせるか、あるいは私が溺死する可能性すらあります。
それにリラックスの場所で堅苦しい論文じゃ息がつまります、どうせ部屋に帰ったら読むんだから。

推理小説や、名作だけど重すぎないものを読んでいます、昨日読み終わったのは
小川洋子の『原稿零枚日記』でした。
決してメジャーな作品ではないと思いますが、いつもの小川洋子調でした。

よく彼女の小説に掲げられる「日常と非日常」の危うい境目は健在で、
のっけから取材先の温泉場で苔料理なる摩訶不思議な食べ物を供される。
しかしまあ、誰もが言う感想を書いても仕方がないので、ちょっと切り口を変えましょう。

いったい何が、日常を非日常へと入れ替えさせるのか。
とりもなおさずレトリックです、少しあざといまでに、おそらく若干のわざとらしさも含めて、
彼女はレトリックを駆使してきます。

日記ですから、日付に分けられています、しかし、具体的な日付ではありません。
しかも、「零枚日記」とあるように、その日の日記の最後には丸括弧で執筆できた原稿が、
日記とは別にあることを示唆する枚数が記載され、増えたり減ったりを繰り返します。

タイトルから言えば、この決して現れることのない原稿の枚数こそがこの作品の中心です。
いったい、「私」は何を書いていたのか、1月1回、1年分の日記に書かれ、破棄されたと思しい
原稿には何が書かれ、何を書こうとしていたのか、日記からは宇宙線研究所だけがヒントです。

さらに、この日記がどこに書かれているのかも分かりません。
その叙述内容から、ひょっとしたらこれは書かれていない日記なのではという思いもよぎります。
書かれていないのに、書かれている日記、言葉の位置が不明です。

なぜそんなことに気が向くのか、日記という文学上の設定はもはや常套的といっていい舞台です。
しかし、その内容の幻想性、「私」の妄想じみた思考と、書けないという割に饒舌な文章から、
その日記という舞台の保証があやふやになります。

書くこと、読むこと、そして、読み解くこと、3つの言葉の受容が作品の要になっています。
「私」は書く以上に読者であり続けます、それが「作家」としての苦痛の原因です。
彼女が誰よりも得意にできるのは、他人の小説の「あらすじ」を書くことです。

それがどれだけの凡作であろうと、その無数の無為な言葉から肝心の言葉を拾いだし、
結晶化させる能力を持ち、原作を超えることもあり、短編だと本文よりもあらすじが長くなることもある、というあたりはボルヘスやカルヴィーノを思い浮かべさせます。

カワウソの肉球に関するエッセイの校閲も、編集者から「どのカワウソ」の「どの肉球」かと、
細分化と列挙によってその多様性のうちにどれをも選ぶことのできない状態、
それは彼女が訪れる温泉の無数の「何とか湯」にもやはり同じ感想を抱きます。

小川洋子の一つの特徴は、博物誌的な物の名の羅列にあります。
そこに、突然奇妙なものが混じり、列挙によって幻想的な場へと移行します。
『薬指の標本』『沈黙博物館』などでもいかんなく発揮されています。

「サヤゴケの燻製、ギンゴケの味噌和え、ムクムクゴケの蒸し物、ヒメジャゴケの煮つけ、タマゴケのお椀、ウマスギゴケの天ぷら…」(p.12)

これらは、苔の名前さえついていなければ、一般的な割烹の献立ですが、
苔の名がつくと途端に全く現実味を帯びない料理に変貌します。
しかも、料理の度にシャーレに載って苔の標本が持ってこられ、顕微鏡で覗く。

理科の実験のようですが、考えてみれば、天ぷら屋や寿司屋では、
生のときのネタをよく見せられるものです、あれと同じ感覚だともいえます。
ここに、日常と非日常の境目があります、この場合は「事物」の置換です。

一方で、列挙の中に一般的なものと異常なものとが混ぜられ、ありもしない世界が現れる。
「重曹泉の天然源泉掛け流し大浴場・檜風呂・カラカラ浴場風呂・バビロニア風呂・薬草風呂・母乳風呂・リンパ液風呂・子宮風呂・涙風呂・樽風呂・漏斗風呂・壷風呂・渦巻き風呂・気泡風呂・愛撫風呂・気絶風呂。」

おかしなものがいくつかあります。例えば「牛乳風呂」はあっても「母乳風呂」はありますまい。
体液から連想される「リンパ液風呂」もリンパ腺刺激というのはあっても、「リンパ液」はない。
「子宮風呂」も同じです、母乳からの連想でしょうが、これも存在しない。
愛撫・気絶にいたってはどんなものか想像もつかない。

ただ、「母乳」、「子宮」、「涙」は小説の後半において意味を持ちます。
自分には生まれなかった子供(結婚しているのかも分かりませんが)を別の子供を見ることで慰め、
どれかが自分の子ではないかと探したりもする。

この作品には、いくつかのモティーフが、話を隔てて織り交ぜられ、回想されます。
苔は盆栽の地面となり、顕微鏡で拡大する極小の世界と盆栽というミニチュアの庭とが、
遠近法を狂わせ、そこには密かに想いを寄せるRさんと書評が縁で誘ったWさんが入り込んでいく。

一方で、博物誌的な羅列を支えるのは、正確な叙述です。
その叙述は厳密であり、カワウソについて徹底した叙述をFAXで延々と送りつける編集者のように、
奇妙なものをそのまま受け入れてしまい、図鑑の説明のように書く。

最後が深海魚の図鑑の説明文の引用を行うことからも、
この叙述の体裁が博物誌に基づいていることが明らかですし、深海魚のモティーフは、
Rさんがトランペットで吹く自作曲《ドウケツエビの宇宙》からきています。

カイロウドウケツというガラスの繊維体を持つ海綿の一種の中に生息するエビです。
このエビが小さいときにつがいで海綿の内部に入り、成長し、一生そこから出ないという、
ある意味で究極の愛の牢獄を描き、深海の孤独の中でその二匹だけが幸福に閉じ込められる。

モティーフの連関と反復は、日記相互を結びつけるという役割にとどまらず、
その日記の持つ幻惑を、そのまま別の文脈に重ねさせ、読み手に眩暈を催させます。
それこそが、作者の手法といってもいいでしょう。

一貫して叙述は具体的であると同時に、「叙述する」ことそのことが主題となっています。
「私」はあらゆるところに叙述行為があることを無意識のうちに読み取り、
それを読み解くことに貪欲であり続けます。

世界を構成する記号の読者として、彼女は雑鬧に備わる図形を読み取り、
泣き相撲で赤ん坊と母親の組み合わせの一致に驚嘆します。
彼女一人が世界から外された読者として、ひたすら読み続けます。

彼女が読み解く世界は、完全で厳密な秩序に基づいており、彼女はそこからあぶれた存在です。
病気の母を持ち、作家ながら作品を書けずに生活保護を受け、夫はなく、子供もない。
祖母と弟がいることは描写から分かりますが、それが現実か妄想かがいま一つはっきりしません。

なぜなら、祖母の部屋にいた幽霊や、母がいるように話しかけるデパートでの靴選び、
母は入院しており、おそらく痴呆かALSで口を聞くことも目を合わせることもできない。
彼女は母の最後の言葉を思い出せないでいます。

その沈黙へと向かう最後の言葉、自分からはぎ取られていく言葉と、
自分の回りの世界に確固とした秩序を持って存在しているように思われる記号の世界の間で、
彼女は何も持たない人として宙吊りになっています。

唯一、あらすじを紡ぎ出す稀有の才を持つのは「書かれたもの」だけと彼女は睦み合うことができ、
書くという行為によってのみ、世界の他者としての記号は「私」のものとして存在しうる。
それは世界の解釈であり、読者は「私」の解釈を読むことになります。

解釈の読み手としての私たちは、その歪んだ世界を見ながら、現実との間に眩暈を覚え、
さらに作者によって周到に配置されたモティーフの反復から、オブセッションあるいは語彙の重層化を覚えてやはり眩暈を催します。

そして、この博物誌的な列挙と叙述、厳密な秩序の背景に、
体液的、内蔵的な血のわだかまりに似たものが潜んでいます。
冷静に見える叙述の端々に、この体液的・内蔵的な叙述が何気なく差し挟まれる。

そのとき、図鑑的な叙述が皮膚となって覆い隠した背景がぬるっと現れるような気がして、
ぞっとするのです。

小川洋子という人は、幾何学的な精神の下にそうした内蔵的不定形な内容を織り込んでくる、
きわめて意識的な作家であり、見た目の口当たりや、日常と非日常というレベルを超えて、
はるかに周到な意地悪な恐ろしい作家だと、常々思っています。

この作品もそういう作品です。