たまたま昨日、友人たちと飲みにいき、BUMP OF CHICKENの話があがりました。
というか挙げました。
彼らの曲に、Aメロが5拍でできている歌があります。
そのとき曲名は忘れてましたが、〈銀河鉄道〉という曲でした。
BUMPの曲はたまに聴きます、何よりラブソングでないのがいい。
そして詩がメタファーに充ちている、ポップスの中でも詩のレベルがきわめて高い。
ちょっと気分転換に、〈天体観測〉を分析してみます。
どう分析するか、あまり考えずに始めますが、なかなか手強い曲です。
その理由の一つは、出来事とメタファーが同じ言葉で語られるためです。
「天体観測」、「望遠鏡」、「ほうき星」は、その言葉の意味が実際の天体観測だけではなく、象徴化されています。
「「イマ」というほうき星 君と二人追いかけてた」とあるように、
観測対象の「ほうき星」は、「イマ」の比喩であるばかりではなく、
「ただひとつ 今も思い出すよ」とあるように「イマ」と「今」は異なるレベルの言葉です。
「今」を何か抽象的な目的として象徴化した「イマ」を、「ほうき星」に喩えるという、
二重の象徴化が行われています(おそらくこういう字による象徴化は日本語ならではでしょう)。

また、この歌は、時制が4つあります。
まず、1番は最も古い過去、2番は現在、3番は歌いだしのメロディが変わり、「背が伸びるにつれて」とあるように時間経過的で、現在に至る前です。そして、コーダは「始めようか 天体観測」というこの曲中にあった勧誘による未来形の動詞が指し示す通りの、今現在に対する未来になります。

時系列が2番と3番でひっくり返されること、
そして、曲中の詩行がそれぞれどの時点のどの視点からによるか、
それらが引っ掻き回されます。

それだけではありません。
最初の2行からつまづきます。

午前二時 フミキリに 望遠鏡を担いでった
ベルトに結んだラジオ 雨は降らないらしい


そもそも、なぜ「午前二時」なのでしょう。
夜でも「午後」の時間帯はそれほど秘密めいた遅さを感じさせないこと、
五音による語呂のよさがあります。
また、「ニジ」と「リニ」が半韻を踏み、「ラジオ」の「ジ」、「ナイラシイ」のように、
音韻の共通する語彙が続きます。
時間が午前であるのも「ゴゼン」と「ボウエン」の半韻を踏みます。
「フミキリ」と「フラナイ」の頭韻もあります。
さらに「2」という数字は、「二分後に」と「二人」という数字を象徴します。

しかし、音韻の共通性にとどまらず、なぜ「フミキリ」が待ち合わせ場所なのかが分かりません。
しかも「踏切」ではなく「フミキリ」と片仮名、「イマ」と同じです。
これは何かを象徴しているのか、それは何か。
フミキリがあるのは線路であり、線路は電車が通ります。

「僕」は望遠鏡を担ぎ、携帯ラジオを邪魔にならないようにベルトに結んで下げています。
これ以外の持ち物はおそらくないのでしょう。

次に「君」が登場します。

二分後に君が来た 大袈裟な荷物しょって来た

二分後というのも何故なのか分かりません、とりあえず数字の象徴的意味にしておきましょう。
それよりも、「僕」の持ち物が「望遠鏡」であったことに対し、
「君」の持ち物が「大袈裟な荷物」であったことが重要です。
「ボウ(ボー)」と「オオ」(オー)」がやはり頭韻を踏みます。
ちなみに「ほうき星」も「望遠鏡」と頭韻を結びます。
しかし、「望遠鏡」が「ほうき星」という珍しく貴重な機会にしか見られないような「イマ」という何かを見つけるための道具です。
それに対して、「大袈裟な荷物」には、もっと身近な期待が籠められていると見てよいでしょう。
その荷物には、例えばお菓子や魔法瓶や拡げて座るビニールシートや星座早見や懐中電灯や、と色々なものが入っていたのでしょう。
ここで「君」の期待は、「ほうき星」を観ることと同時に、あるいはそれ以上に、
そこで過ごす時間の楽しさへの期待であったことが、「大袈裟な荷物」によって暗示されています。
「僕」は「大袈裟な」と言っているように、それを少し馬鹿馬鹿しい思いで見ている。
馬鹿馬鹿しいといっても、馬鹿にしているのではなく、いつくしんでいる。

始めようか 天体観測 ほうき星を探して

タイトルである「天体観測」を含むこの一行も意味深にできています。
「始めようか」は「雨は降らないらしい」とともに、過去の出来事を現在として置き直す語法です。
そして、「ほうき星を探して」とあるように、彗星は肉眼では観られないもの、
ひょっとするとどこにもそんなものはないかもしれない、という可能性すら匂わせます。

そのあるかないか分からないような状況、一抹の不安が次行の「深い闇」によって一層たしかなものになります。

深い闇に飲まれないように 精一杯だった
君の震える手を 握ろうとした あの日は


この「深い闇」が夜空のことというよりは、むしろもっと不可解な見通しのきかない、
立ちふさがり、覆ってしまうような「何か」の隠喩です。
「僕」は自分に「精一杯」で「君」の手を「握ろうとした」が「握れなかった」。
この2行は、上に記した現在形の動詞に対して、「あの日」と過去を明示します。
さらに言えば、この2行はこれを歌う「現在」であり、
時間が急に転換される効果が生じています。

見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ
静寂を切り裂いて いくつも声が生まれたよ
明日が僕らを呼んだって 返事もろくにしなかった
「イマ」というほうき星 君と二人追いかけていた


少なくとも、この時点では雨は降っていません。
「切り裂いて」とあることから、それは歓声を伴っていると考えられます。
何かが見えました、ほうき星か、「見えないモノ」への期待や願望が。

ここまでくると、「ほうき星」すなわち「イマ」が、
「夢」、「期待」、「希望」といったものの隠喩であることが分かります。
その内容は不明です、それは聴く人がそれぞれに感じればいいことです。
「明日」は当然、そういった先に訪れてほしい「イマ」に対して、
目の前の現実を指します。

ただ、夢と書いてしまえば、それは非常に陳腐なものになります。
それを、「ほうき星」の「イマ」という二重の隠喩にしたことが、
つまり言葉の中に距離を作りだしたことが、この歌の美しいところです。
あるいは「夢」や「期待」ですらないかもしれません。
「探す」という動詞に注目すると次のような詩行があります。

気が付けばいつだって ひたすら何か探している
幸せの定義とか 哀しみの置き場とか


対照法を使って、その間にある無数の何かを指します。
ここでは「幸せ」と「哀しみ」という比較的安易な語を使うのは、
「ほうき星」のようなレアなものではなく、
もっと身近なものまで「探す」行為に含まれていることを表します。
「望遠鏡」に対する「大袈裟な荷物」なのです。
その大袈裟な荷物を「僕」もまた抱えます。

今まで見つけたモノは 全部覚えている
君の震える手を握れなかった 痛みも


では、なぜ「君」の手が「震えた」のでしょう。
また、なぜ「僕」は「君」の手を握らなかった、いや、握れなかったのか。

「精一杯」という言葉を思い出しましょう。
ほうき星を観るという「僕たち」の行為に対して、
周囲のあらゆるものが、自分たちを圧するものとしてあらわれてきます。

「静寂」、「深い闇」、「暗闇」、そして、予報外れの「雨」。
「君」の震えは、当然寒さではなく、それらの言葉が象徴する、
外界からの抑圧に対する恐怖です。
その抑圧は「飲まれないように精一杯だった」のですから、自分にも襲いかかり、
「僕」は自分を守ることしかできなかった。

雨が降ったとき、「ラジオ」は他者によるお墨付きであったことが分かります。
「らしい」、とはしておきながら、可能性の高いもの、自分たちの「天体観測」を可能にしてくれる
前提を作りだしてくれる切符のような役割を持っています。
(似てはいても『魔女の宅急便』のラジオの役割をはるかに超えていますね。)
そのラジオを聞いたのは「僕」であり、「僕」の持っているラジオから聞いた保証です。
晴れている、けれども「僕」がラジオを携帯したのは、彼が不安をどこかに抱えており、
確実ではなくとも、あてにならない保証を頼りにせずにはいられなかったことが、読み取れるのです。

しかし、ラジオのあてにならない保証は、あっさりと覆され、
「君」は半分泣きそうになりますが、「僕」はラジオという味方まで失って、
もはやなすすべもなく、「静寂」と「暗闇」の中を「駆け抜け」ます。
(ちなみに「雨」と「泣く」は縁語です。)
雨が降っているのですから、静寂じゃないはずで、だからこそこの象徴的な効果が生きてきます。

「駆け抜ける」という動詞は、
「切り裂いて」と対になって、その行動の直情的な運動を示します。
その運動が示すのは「若さ」です。
彼らは若すぎて、世界の圧力としての、静寂と暗闇から敗走します。
「君」はその恐ろしさから、おそらく「僕」と「イマ」を追うことをやめます。
あるいは、いつの間にか二人の向く方向が変わります。
望遠鏡の先に見えるのは、ごくごく小さな視角です。

3番になったとき、歌いだしのメロディは変わります。

背が伸びるにつれて 伝えたい事も増えてった
宛名の無い手紙も 崩れるほど重なった


「宛名の無い手紙」は「伝えたい事」の隠喩です。
増える、重なる、という動詞は、やはり大きな荷物をイメージさせます。
それよりも、詩の技法として優れているのは、その手紙の内容を引用符なしで続けることです。
手紙の内容に含まれた「ただひとつ 今も思い出すよ」は、
そのまま引用を閉じずに思い出の内容に入り込んでいき、現在に近づいていきながら、
急に1番の過去のエピソードに戻ります。

「見えないモノ」に対する「見えてるモノ」は当然「君の震える手」でしょう。
「見落とす」とはその意味に気付かなかった、ということです。
自分に精一杯で、「君」がどうしてほしいのかが分からず、
ただすべてのものに裏切られたという挫折感の中、逃げるように駆けていくのが「僕」です。
その敗北感によって「手」を繋げなかったということが、「痛み」です。
それは時間が経ってやっと分かる、けれどもそのときには、「君」はもういないのです。

ここまでの詩の1番と3番後半が対になり、時制的なシンメトリーを形成し、
歌の世界が回想の中に閉じられようとします。

「イマ」という ほうき星 今も一人追いかけてる

孤独な「天体観測」です。
しかし、そのような閉塞感をコーダが救います。


始めようか 天体観測 二分後に君が来なくとも
「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけている


「君」がいないのになぜ「君と二人」なのか。
同じ時・場所、行為の反復が予告されます。
その再会は果たされないかもしれませんが、「来なくとも」には、
「来るかもしれない」という期待が込められています。

この「天体観測」をする、という行為は、単に「ほうき星」を探すのではなく、むしろ
その周りに圧倒的に存在する「深い闇」や「静寂」、「雨」にもう一度立ち向かうという決意を
暗に示しています。
もう一度、「君」が来て、もう一度「雨」が降っても、
今度は手を握れる、ということが含みに入っています。
「天体観測」はここで意味を変えます。
ただ遠いものへの眼差しではなく、もっと近いものへの眼差し、
「僕」は「大袈裟な荷物」を受け入れるのです。
このとき、彼はラジオをぶら下げているのでしょうか。

語ることよりも、
語られないことによって、
この歌は力強いものとなります。
ほうき星を追うことではなく、それを覆そうとする、雨に立ち向かうための歌なのです。


とまあ、思いのほか真面目に分析しました。
そして、もうひとつだけ僕の仮説を示しておきたいと思います。
「午前二時」というのに引っかかっていましたが、
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』があるのではないか。
その中に出てくる停車場の「青じろい時計はかっきり第二時を示し」ていたのです。
あまり注意が向けられる場所ではないから偶然かもしれませんが、
「フミキリ」という電車に関わる言葉に加え、
この停車場の前後、ジョバンニはカムパネルラと喧嘩をしています。
沈没した船の乗客だった女の子とカムパネルラが楽しそうに話すことに妬んだ場面です。
踏切が、線路と道の交差点であることも考慮に入れれば、そこは一種の「停車場」だとも言えます。
少しやりすぎですが。

どこまでも一緒に行くことができない、という点も似ていますし、
「ほうき星」も出てきます。
女の子の弟が賢治の『双子の星』を引用し、女の子が「それは違ふ話よ」とたしなめます。
BUMPには〈銀河鉄道〉という曲があるくらいですから、
この仮定、ないとは言えますまい。
そういえば、暗闇についても、
カムパネルラが空の石炭袋を見て、ジョバンニもそれを見てぎょっとしながら、「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」と語るのです。
そして、次の瞬間、カムパネルラは姿を消します。

深読みかもしれませんが、
コノテーション(含意)を汲み取ることが、文学的な楽しみであり歓びなのです。