この秋は行きたい展覧会が目白押しで、なのに時間が取れないというジレンマを抱えています。
それでも、どうにか今日バイトあけの午前中にターナー展に行ってきました。
ターナー展は1997年にやったときに見た記憶があります、もう16年も前のことなのだと思うと
ぞっとしますが、非常に印象に残っていました。
あの展覧会では嵐の絵がありました、
あの頃はカスパル・ダーフィト・フリードリヒに感銘を受けていたりと、
ロマン主義的だったのだと思います。

今回はだからまあいいかな、とも思っていたのです。
前に名品はかなり観たし、こう言っては何ですが、割とどれも似ているので。
しかし、行ってみてやはり16年も経てばさすがに多少は絵のことも分かってくるのでしょうか、
全然違う印象を受けました。
ところが、専門でないと、どうしても何を感じたのかということは説明しがたいものがあります。
全く途方に暮れてしまいます。

ターナーという人物は、私たちと見ている世界が違ったようです。
光をそのまま物質化したといたらいいのでしょうか、彼の見る光には手触りがあるようです。
壁や波に散らばる光は分厚く、町や山々を望む空気を満たす光は薄く重なりあい、
波や氷のざらつきや滑らかさの中で輝きを閉じ込めたまま、
カンヴァスの上で化石したようです。
ところが、彼の描く光は移ろうものの側にあって、
夕陽や月の出、あるいは波であったり嵐を呼ぶ雲であったりと、
その光は留まろうとせず、刻一刻を争うようです。
次の瞬間にその光が失われ、あるいは光を増す、そういう変化までが見えるのです。
留まらない光が、何か強烈な意志の下に不動のものにされる、
ターナーの絵を見て心動かされるのは、その前後の時間の動きが手に取るように見えることです。

実に不思議です。

光を捉えようとした画家のモネとはだいぶ違います。
何といいますか、ターナーの方が厳しい。
それは画題が切り立った崖や「崇高」を呼び起こす嵐の海であったりすることもあるのでしょうが、
ターナーの絵は、描かれた光の前後を含んでいる動的な光なのですが、
モネの例えばルーアンの大聖堂や積み藁のシリーズなどは、あそこにも束の間の光があるのですが、
その前後の時の移ろいのようなものはなく、
瞬間を切り取って、その美しさの中に留まろうとするような印象があります。
あくまで印象です、理屈を言っているのではありません。
残念ながら、私には絵に感じた印象を叙述する言葉を持ちません。

その原因がどこにあるのかよくわからないのですが、
ターナーがそれぞれの光を描くために、いちいちその描写の方法を変えているというところにあるのではないかという気がします。
そうすると、画面が安定せず、カンヴァスの表面で絵の具の盛り上がりや荒れや滑らかさから光の表現に疎密が作られ、その間を私たちの視線は気付くともなく行ったり来たりする。
そして、細部が見えた瞬間に、私たちはその光がどのような瞬間であるのかを理解する。
たとえば、初期の作品で嵐の合間に出た虹を描いた《バターミア湖、クロマックウォーターの一部、カンバーランド、にわか雨)》(1798年)があります。
これは小さな画像では分かりませんが、
雲の切れ目から光が射して、湖の対岸の街を明るく照らしています。
湖を区切る丘の後ろから白っぽい虹が丸く伸びている。
ちょうど晴れ間の少し明るくなった空に二重の虹が見えています。
実際、虹はそうやって見えます。
しかし、それ以上に驚きなのは、その光のあたる街が、荒い絵の具を置いただけのようでありながら、
すべて細かく描かれていることです。
それによって、光が街の輪郭をくっきりとさせている様子が見え、
明るさを感じることができます。
画面左の丘の上には畑の畝か道を歩く人の姿も見えます。
光の反映からその姿が急に浮かび上がったようです。
舟をこぐ人の姿は逆に暗く、そのボートの航跡だけが点々と見えている、
そこに時間を感じます。
こうして感覚に訴えるように、ディテールの焦点が定められています。
そして、質感がそこに伴うように技術が凝らされている。
私たちは、何をみることでどのような光を感じるのか、
ターナーがそれを見せてくれるようです。

イギリスに行きたくなりました。
しかし、行ったら今度は一年くらいいないと何も満足できないでしょう。
あきらめて、テニスンかワーズワースかバイロンでも開きたいところ、
でも、その時間すら許されないところ。