毎年晩秋の恒例は、新宿は花園神社の酉の市にかけられる見世物小屋です。
はじめて訪れたのが5年前、以来毎年通っています。

蛇食い女の小雪さん、口中火焔の術のお峯さん、今年はいませんでした。
出口にはいつものおばちゃんがいたのですが、
いつも見る人たちがどうもおらず、ちょいと寂しい。
お峰さん、高齢でついに引退でしょうか、
毎年、蛇のぬいぐるみを巻き付けた死に装束で癒しを振りまき、
ガソリンとロウソクの垂れた蝋を火に吹き付けて大きな火を放ち、
満場の拍手を得ていたのですが。
小雪さんの、真っ赤な着物に白い化粧、艶にして猥なるその姿が、
微笑みながら蛇をぺろぺろとなめ、やにわにがぶりといく、
あの光景が今年は見られなかったのが残念です。

しかし、入ってみると、まず人食い土人たちが司会の探険帽を被った男に襲いかかり、
逆に脅されるというまったく下らない、じつに荒唐無稽な寸劇で爆笑します。
土人というのは、先住民族の差別用語として用いられて今では禁止されていますが、
これは先住民でもなんでもない、靴墨を全身に塗って叫ぶ面白い人たちのことです。
この土人たちが司会の男が放り投げたドライアイスを口に頬張り、はふはふする。

次に、逃げ遅れた病気老人という、頭を剃り、全身にペイントで斑を作った男が出てきて、
のたうち回った挙句に鼻からチェーンを下し、口から出して水の入ったバケツを持ち上げる。
ドライアイスやチェーンの芸は、いつも決まったおじさんがやっていたのですが、
世代交代か若い者に芸を教えようというのか、まだ慣れていないという様子。

そして、蛇食い女ならぬ蛇女が飛び出しました。
姿は人間、心は蛇という女、これがなかなかの美人です。
身体中を痙攣させてのたうち回る様は、まさに土方巽の暗黒舞踏を彷彿とさせます。
露わな足が傷だらけなのがやや痛ましい。
胴を暗緑色に塗って臍を出している、あれ、臍。
いや、そんなことより腰がくびれてスタイルもよく、ぐねぐねと身を動かす様は、
実に猥褻で淫らがましい。
何ともエロティックでいいですね、
それが何かの幼虫をむしゃむしゃと食べるのです。
非常にえげつないものですが、
人間の中にはグロテスクなものがやはりあって、
その欲動が形を取ると、ああいったものになるのではないか。

ここに、お馴染みのアマゾネスぴょん子ちゃんが出てきて、
火のついた蝋燭を口に入れ、にこにことしている。
今年は鶏を食いちぎることはやりませんでした。

それにしても、毎年みながら思うのです。
ここには昭和がまだ生き残っており、エロ・グロ・ナンセンスの世界が大切に保たれている。
整頓してはいけないのです、ぼろっちい小屋にけばけばしく飾り立てられた看板、
おすなおすなの人いきれ、ベニヤを渡した舞台で荒唐無稽な芸を見せる。
でも、小雪さんとお峰さんを見たかった。

調べたら、どうもいつもの大寅興行社ではなかったようで、
ゴキブリコンビナートというアングラ劇団だった旨。
名前だけは聞いたことあります。
でも、お峰さんが無事だったなら何より。
さらに調べていると蛇食い女の小雪さんもこの劇団の女優さんだったとのこと。
こういうことは調べない方がいいですね、やっぱり不思議なほうが面白い。

それにしても、思うのです。
彼らが劇団だったとしても、見世物小屋という場所を得た途端、
それは見世物に変わるのです。
もちろん、芸は共通しているのがありますし、
口上も毎年の見世物小屋の口上と同じような、あるいはいつもよりもアクティブでした。
しかし、あの場所、つまり掘建て小屋の猥雑な空間が先立つという気がします。

俳優や役者、芸人がある場所を作るのではなく、
先に存在している空間に、役者や芸人がその空間を代弁する、そんな印象があります。
ある空間の影響の元に観客がいて、芸人がいる、ハレの空間性を感じます。
観客もその空間において「観客」という役を演じ、
その空間が成り立つように強制する力がある。
芸人は何かを演じるというよりも、その空間の要求する役割を果たすために用意された、
人形のような、あるいはその空間のいかがわしさそのものであり、
あの掘建て小屋という空間がそれを実現している。
おそらく、唐十郎の赤テントなどもそういう空間のもつ聖性を目指したのではないかと思います。
劇場空間というものを考える上で、ちょっと面白い見方を感得したのではと思います。

来年も楽しみです。