年をとるのは悲しいことです。

勿論、年齢を重ねていくことで得られる素敵な部分も沢山あります。
人生経験がもたらす叡智や思慮深さ、包容力、愛…
それらは人生の、そして魂の尊い財産です。

ですから、ここで言う「年をとる」とは加齢による身体の衰えのことと思って下さい。


本当は、私達の本質である魂は、老いも衰えもない永遠の存在であり、肉体は今生での魂の乗り物。あるいは器。
つまり仮の姿に過ぎないのだけれど、とは言え、やはり、自分の肉体は今生のかけがえない相棒です。
魂が色んな経験をするため、文字通り手となり足となり、自身を体現してくれる分身でもあるのです。

それゆえ、生きている間は肉体こそが自分そのものだと錯覚してしまうから、加齢による身体の衰えは、まるで自分を失っていくかのように感じてしまうのです。

衰えていく肉体や容姿…

これまで出来ていたことが出来なくなっていく歯がゆさ…

年だから仕方ないと受け入れて、前向きに加齢と付き合っていく人もいます。

けれどそんな人々の内にも本当は、あきらめという名の元に無理やり押し込めた悲しみがあったりもするものです。


以前こんなことがありました。
自転車に乗った高齢男性がゆっくり追い越して行ったと思ったら、見たところ何も無い道路のほんのわずかな凹凸にバランスを崩したのか、急によろよろした後、自転車ごと勢いよく倒れこんでしまったのです。

急いで駆け寄り、大丈夫ですかと手を差し伸べました。
でも彼はその手を取ることなく、すぐには起こせない身体を、それでも自力で起こそうとしながら、「前はこんなことなかったのになあ…」と、突然ポロポロと涙を零したのです。

車で通りがかった中年男性も降りてきて、「病院行ったほうがいい」と声をかけましたが、まわりの心配や差し伸べられる助けを振り切って、泣きながら自分で何とか立ち上がって自転車を起こし、足を引きずりながら再び自転車に乗って去っていきました。

「大丈夫かねえ…あとでどっかに痛みが出るかもしれないのに、年寄りは頑固だから」と車の男性もあきれたように連れの女性と話しながらその場を後にして行きました。

頑固…確かにそうかもしれません。
でも私は、彼のその頑なさは、不甲斐ない己を認めたくない、まわりにもそう思われたくないという、彼なりのプライドでもあったのではないかと思います。

普段は考えないようにしていても、ふとした時に向き合わざるを得ない衰え。

年を取っていく自分を受け入れることの悲しさ。

後に1人残った私は、遠ざかっていくおぼつかない進みの自転車の後ろ姿に、そんな彼の痛みや切なさを感じざるを得ませんでした。


そしてまた最近、私は一匹の老犬に同じ痛みを感じています。

その犬は近所の馴染みの子で、男の子の大型の日本犬です。
一般的な大型犬の平均寿命を過ぎて長寿の域に入ってからも長らく元気ではいたものの、やはり寄る年波には勝てず、この一年で一気に衰えが見えるようになりました。

いつもクールに颯爽としていて、凜とした誇り高さを感じるたたずまいの子でしたが、力強かった歩みも会うたびにおぼつかなくなっていき、美しかった毛並みも徐々に艶を失なっていきました。

それでも夏前まではご主人に連れられて、ご自宅周辺を散歩していましたが、しばらく会わない日が続いた後に久しぶりに会った彼は、後ろ足に力が入らず、歩くのにも不自由さが出るようになっていました。

夏から秋への移ろいの中で、どんどん彼の状態も進んでいき、冬が深まる頃にはついに、彼は自力では歩けなくなり、ご主人に補助をしてもらいお家の表に排泄に出てくるのみになってしまいました。

トイレはどうしても外でしたがるんだ。家では絶対にしないから。とご主人は仰っていました。

何だかひとまわりもふたまわりも小さくなってしまったように見える彼ではあったけど、元々は頑強な子なだけに、人間の男性であっても彼の身体を支えるのは大変なこと。
バスタオルでお腹を下から支えて、その端に縫い付けた紐で上に持ち上げることで彼の歩行を助けています。

最初のうちは、後ろ足の片方以外の3本は動かせていたので、うちの犬の姿を見ると近くに寄って来ようとします。
でもその歩みは補助された上でもゆっくりがやっと。
もう動かない片側の後ろ足は地面に引きずられて不自然な方向を向いています。

それでもかつては彼のお気に入りだったうちの犬(女の子)の前に来ると、毅然たる表情になり、心なしか身体もシャキッとするのです。
彼なりに女の子の前ではカッコ悪い姿は見せたくないのかもしれません。

血気盛んなオス犬が気になるメス犬の前で、これ見よがしに辺りにマーキングをして自分をアピールすることがありますが、その時の彼もうちの子の前に来て鼻を突き合わせた後、ふと見ると、その場でその姿勢のまま、オシッコをしていたのです。
幾度か会うたびに必ずそうであったから、ああ彼はアピールのマーキングをしているつもりなんだと気付きました。

でももう彼は片足を上げてそこらの塀や電柱にマーキングをすることは出来ません。自力でそこまで歩いて行けないし、足一本上げることすら、身体はそれを支えることが出来ない…

けれど彼はこれまでの自分と同じでいたいのです。女の子にもアピールしたいのです。

その頃はもう痛みや不安に夜鳴きするようになっていたそうですが、それでもわずかな時間でもトイレの時は外に出たい…
外に出たら、これまでの元気だった自分を、ほんの少しだけ心の内で取り戻せたのかもしれません。

しかし、日を追うごとに、そんなアピール行動も無くなっていきました。
後ろ足は両方とも動かなくもなりました。
もう介助無しでは立つことも自ら身体を支えることも出来なくなってしまいました。

表に排泄に出て来る頻度も減り、私が散歩でそのお宅の前を通るいつもの時間にも会えない日が多くなりました。

1日1日の変化は小さいかもしれない。でも重なるとそれは大きくなる…
毎日会っていると、その衰えははっきり目にはわかりにくいものですが、何日か日をまたいで会うと、やはり顕著に彼の衰えが見えてしまう。悲しいものがありました。

次に彼に会った時、彼は動きたいのに動かない自分の身体への苛立ちと悲しみの中にありました。

もはや外に出ることも彼の心を救わない。
ほんの少し本来の自分を心の内だけでも取り戻すことすら許されなくなっていました。

もう前足も力が入らなくなり、ご主人は大きい彼の全体重を支え持ち上げなければなりませんでしたが、持ち上げられても彼の四肢は力無くだらんと地面を引きずられるだけ。

行きたい方向を身体で示すことも叶わなくなった彼は鳴いて意識表示をするしかありません。

その声には彼のやるせなさと悲しみが満ちていて、胸が締め付けられるようでした。

ああ、今の彼の悲しみは、あの時の高齢男性と同じ痛みの悲しみだ。そう思いました。

向き合わざるを得ない衰え。
もうこれまでの自分ではないことを受け入れる悲しさ…
彼の心は泣いていました。

なんで出来ないの
なんで動かないの
こんなのは自分じゃない

そんな心の叫びが彼の声の奥底から伝わってきて、涙がこみ上げました。

大丈夫!カッコいいよ
それでも君は、変わらずカッコいい
私は心の中で一生懸命彼に伝えていました。

私には動物達の心を読む力もある。でもそれゆえ、時に彼らの声無き心の痛みも伝わってきて、自分の痛みのように打ちのめされることがある…

この時も彼の悲しみがいつまでも私の内に残り、しばらく眠れなくなるほどでした。

とにかく朝も夜も、気付けば彼のことばかり考えてしまっている私がいました。

その後一度だけ、少し遠目から彼の姿を見ました。

もう全てを受け入れざるを得ない諦めと、静かな、でも深い悲しみがその背中から溢れていました。

彼は訴えるように哀れな声をご主人ご夫婦に向かってあげました。

もういい
横になりたい

介助で身体を支えられることさえ、もう彼の身体には苦痛でしかないようでした。

そんな彼をなだめるように、ご夫婦に頭を撫でられながら、彼はふたりがかりで支えられ家の中に消えていきました。
それが私が彼を見る最後になりました。

その後、彼はもう頭を持ち上げることすら出来なくなり、完全に寝たきりになって数日後に息を引き取りました。

いつも毅然としていた凛々しい彼らしい、静かな誇り高い最期であったそうです。

訃報をご主人から聞いた時、覚悟していたといえ、言葉に出来ない色んな思いに打ちひしがれました。

別れは悲しい。でも彼は、動かない身体から解放され自由になったんだなと思うことで、私もどこかで救われたかった…

だからかもしれない。霊視しようとして視たのか、勝手に流れてきたのか、今になったらわからないけれど、彼が息を引き取ってから3~4日後ぐらいだったか、彼のことを考えた時に彼の思いが流れ込んできました。


鑑定で亡くなった動物達を視る時、多くの子がそうであるように、彼もまた、ご家族に対して、「悲しい想いをさせてごめんなさい」と思っていました。

そして、身体が不自由になってしまったことにも「ごめんなさい」と思っていました。

自分の身体が衰えて動かなくなってしまったことは彼自身、本当に悲しかっただろうけれど、今はそれよりもそうなってしまったことをご家族にごめんなさいと思っているのです。

元気じゃなくなってしまって、ごめんなさい
動けなくなってしまって、ごめんなさい
沢山お世話してもらわなければならなくなってしまって、ごめんなさい…と


亡き動物達はいつもそう…
自分が病気や老いで、衰えて不自由になってしまったことや動けなくなってしまったことで、愛するご家族達に迷惑をかけてしまったのを何よりも一番に詫びている。

そうなってしまった自分を責め、不甲斐なく感じている。

言い換えれば、愛するみんなに迷惑をかけてしまうからこそ、もしかしたら、自らの衰えが、我々人間以上に歯がゆく悲しいのかもしれない。

彼らだって、「年を取る」ということは理解している。その先に生の終わりがあることも理解している。
でもそれは魂のレベルでの話であって、動物達は我々人間よりも、魂の意識と肉体の意識がより繋がっていることが多いとは言え、やはりそれでも、生きている時は、実際に動きたくても動けなくなっていく自分の肉体の衰えに対しては、肉体の意識は魂の意識ほどには理解しがたい、いや、受け入れがたいことなのかもしれません。

彼らにとって、本来の健康で元気な自分でいることこそが、愛してくれるご家族への日々の恩返しなのです。愛する家族の中での自分の存在意義なのです。

なぜなら彼らはいつも愛する家族のために役に立ちたいと思っているから…
動けなくなって役に立てない自分を申し訳なく思ってしまうのです。

でも彼らに伝えたい。
そうじゃないよ、元気であろうと病んでおろうと、その存在自体が全て愛おしいのだと。
家族の一員になった日から、いつか来る衰えやその先に待つお別れも、ちゃんと全てを受け入れ、全てを愛する覚悟で、共に生きているんだと。

だから自分を責めなくていいんだと。詫びなくていいんだと。
共に生きてくれたこと、それだけで充分私達は喜びと幸せを与えてもらえたのだと。

亡き子へのそんなご家族の想いはやがて彼らにも伝わり、彼らも安心して天に向かっていくことになるのだけれど、死後まだ日が浅かったり、詫びる思いが深い責任感の強い子だと、しばらくは「ごめんなさい」の思いがこうして先に立ってしまうのです。

亡き彼も、生前、自分が家族を守っているという使命感と責任感の強い子だっただけに、自らの肉体の衰えをことのほか不甲斐なく感じていたのでしょう。
それが、彼の悲しみをより深くもしていた…

今、確かに彼は不自由な肉体からはもう解放された。

「おとうさん、おかあさん、もう大丈夫だよ。もう動けるようになったよ」
だから彼はそうご家族にも伝えたいと思っている。

ご主人の前でシャキッと立って見せたり、歩いてみせたり、周りをくるくると小走りしてみたりするのだけれど、わかってもらえていないのが歯がゆく、元気の無いご家族の姿に、なおさら今なお、申し訳なさを感じてしまっているのです。

でも同時に、好きだったお庭で、風やお花の匂いを感じたり、木々から漏れる柔らかな陽の光に包まれたり、そんな生前の何気ないけど満ち足りた幸せな日々を思い出し噛みしめている穏やかな彼も感じたので、彼もまた他の多くの亡き動物達と同じように、じきにご家族の愛情によって救われ、自分の役目を全う出来た誇りを取り戻し、満足、安心して天に向かうことでしょう。

いつもかっこよかった彼。まるで昔ながらの侍のような風情すら感じた彼。
だけど本当に優しく穏やかだった彼。
そんな彼の思い出を胸に、私も彼の悲しみが一日も早く癒やされることを、彼の冥福と共に祈りました。

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人は頭ではわかっているつもりでも、実際に自分がその立場にならなければ真にわからないことも少なくありません。

年を取るということだって、それがどういうことか、自分も年を取ってみないと、若い時にはやっぱり真にはわからなかったりします。

以前、電車に乗り込む人の列で、お年寄りの後ろにいた女子高生が「じゃまや、どけ」と、聞こえるか聞こえないかの声でお年寄りに向かって言いながら、その背中を押しのけて乗り込む姿を見て、驚いたと同時に悲しい気分になったことがありました。

頭ではお年寄りはいたわらなければならないと知っていても、若い肉体の意識では、それがなぜなのか、実感を持っての理解が出来ないのでしょう。
自分の肉体の感覚の範囲でしか想像が出来ないのです。

勿論その女子高生のような人はごく一部かもしれません。
でも、大なり小なり誰しもが、若い時には年を取ることは未知の世界でもあるのです。
今まで当たり前に出来ていたことが出来なくなっていくということがどういうことか、そしてその悲しみがどういうものか、その立場にならなければ、真にはわからなかったりするのです。

だから時に自分の感覚の物差しで相手を見てしまう。なぜ出来ないのとイラついたり、馬鹿にしたりも出てきてしまう。

哀しいかな同じ人同士であってもそうなのです。それが対動物となると余計に、その痛みや悲しみを我が事と同じように感じるのは難しいかもしれません。

けれど、痛みや悲しみは人も動物も同じです。
むしろ動物達よりも時間をかけて老いていく人より、命の時間の短い動物達のほうが老いに向かう速度も早いだけに、自らの急激な衰えの変化を受けとめるのは人以上に酷かもしれません。

動物達だって年を取るのは悲しい。
出来なくなってごめんなさい、そういつも思いながら懸命に生きているのです。

愛する家族であり我が子でもある動物達が老いていく時、どうかそれをわかってあげて下さい。
後悔の無いよう、それまで以上に愛情を注いであげて下さい。

そして、家族であれ街で会う方であれ、どうかあなたのまわりの高齢の方に、心に寄り添う思いやりを持って接することの出来るあなたでいて下さい。



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想像力の欠如は、時に他者の痛みがわからない人を生んでしまう。

他者への思いやりとは、もし、それが自分だったらどう感じるか、相手の立場になって考えること。

相手の痛みや悲しみを我が事のように感じられてこそ、真の優しさに繋がる。

それが出来るか出来ないかは、想像力の有無なのだ。

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