年をとるのは悲しいことです。

勿論、年齢を重ねていくことで得られる素敵な部分も沢山あります。
人生経験がもたらす叡智や思慮深さ、包容力、愛…
それらは人生の、そして魂の尊い財産です。

ですから、ここで言う「年をとる」とは加齢による身体の衰えのことと思って下さい。


本当は、私達の本質である魂は、老いも衰えもない永遠の存在であり、肉体は今生での魂の乗り物。あるいは器。
つまり仮の姿に過ぎないのだけれど、とは言え、やはり、自分の肉体は今生のかけがえない相棒です。
魂が色んな経験をするため、文字通り手となり足となり、自身を体現してくれる分身でもあるのです。

それゆえ、生きている間は肉体こそが自分そのものだと錯覚してしまうから、加齢による身体の衰えは、まるで自分を失っていくかのように感じてしまうのです。

衰えていく肉体や容姿…

これまで出来ていたことが出来なくなっていく歯がゆさ…

年だから仕方ないと受け入れて、前向きに加齢と付き合っていく人もいます。

けれどそんな人々の内にも本当は、あきらめという名の元に無理やり押し込めた悲しみがあったりもするものです。


以前こんなことがありました。
自転車に乗った高齢男性がゆっくり追い越して行ったと思ったら、見たところ何も無い道路のほんのわずかな凹凸にバランスを崩したのか、急によろよろした後、自転車ごと勢いよく倒れこんでしまったのです。

急いで駆け寄り、大丈夫ですかと手を差し伸べました。
でも彼はその手を取ることなく、すぐには起こせない身体を、それでも自力で起こそうとしながら、「前はこんなことなかったのになあ…」と、突然ポロポロと涙を零したのです。

車で通りがかった中年男性も降りてきて、「病院行ったほうがいい」と声をかけましたが、まわりの心配や差し伸べられる助けを振り切って、泣きながら自分で何とか立ち上がって自転車を起こし、足を引きずりながら再び自転車に乗って去っていきました。

「大丈夫かねえ…あとでどっかに痛みが出るかもしれないのに、年寄りは頑固だから」と車の男性もあきれたように連れの女性と話しながらその場を後にして行きました。

頑固…確かにそうかもしれません。
でも私は、彼のその頑なさは、不甲斐ない己を認めたくない、まわりにもそう思われたくないという、彼なりのプライドでもあったのではないかと思います。

普段は考えないようにしていても、ふとした時に向き合わざるを得ない衰え。

年を取っていく自分を受け入れることの悲しさ。

後に1人残った私は、遠ざかっていくおぼつかない進みの自転車の後ろ姿に、そんな彼の痛みや切なさを感じざるを得ませんでした。


そしてまた最近、私は一匹の老犬に同じ痛みを感じています。

その犬は近所の馴染みの子で、男の子の大型の日本犬です。
一般的な大型犬の平均寿命を過ぎて長寿の域に入ってからも長らく元気ではいたものの、やはり寄る年波には勝てず、この一年で一気に衰えが見えるようになりました。

いつもクールに颯爽としていて、凜とした誇り高さを感じるたたずまいの子でしたが、力強かった歩みも会うたびにおぼつかなくなっていき、美しかった毛並みも徐々に艶を失なっていきました。

それでも夏前まではご主人に連れられて、ご自宅周辺を散歩していましたが、しばらく会わない日が続いた後に久しぶりに会った彼は、後ろ足に力が入らず、歩くのにも不自由さが出るようになっていました。

夏から秋への移ろいの中で、どんどん彼の状態も進んでいき、冬が深まる頃にはついに、彼は自力では歩けなくなり、ご主人に補助をしてもらいお家の表に排泄に出てくるのみになってしまいました。

トイレはどうしても外でしたがるんだ。家では絶対にしないから。とご主人は仰っていました。

何だかひとまわりもふたまわりも小さくなってしまったように見える彼ではあったけど、元々は頑強な子なだけに、人間の男性であっても彼の身体を支えるのは大変なこと。
バスタオルでお腹を下から支えて、その端に縫い付けた紐で上に持ち上げることで彼の歩行を助けています。

最初のうちは、後ろ足の片方以外の3本は動かせていたので、うちの犬の姿を見ると近くに寄って来ようとします。
でもその歩みは補助された上でもゆっくりがやっと。
もう動かない片側の後ろ足は地面に引きずられて不自然な方向を向いています。

それでもかつては彼のお気に入りだったうちの犬(女の子)の前に来ると、毅然たる表情になり、心なしか身体もシャキッとするのです。
彼なりに女の子の前ではカッコ悪い姿は見せたくないのかもしれません。

血気盛んなオス犬が気になるメス犬の前で、これ見よがしに辺りにマーキングをして自分をアピールすることがありますが、その時の彼もうちの子の前に来て鼻を突き合わせた後、ふと見ると、その場でその姿勢のまま、オシッコをしていたのです。
幾度か会うたびに必ずそうであったから、ああ彼はアピールのマーキングをしているつもりなんだと気付きました。

でももう彼は片足を上げてそこらの塀や電柱にマーキングをすることは出来ません。自力でそこまで歩いて行けないし、足一本上げることすら、身体はそれを支えることが出来ない…

けれど彼はこれまでの自分と同じでいたいのです。女の子にもアピールしたいのです。

その頃はもう痛みや不安に夜鳴きするようになっていたそうですが、それでもわずかな時間でもトイレの時は外に出たい…
外に出たら、これまでの元気だった自分を、ほんの少しだけ心の内で取り戻せたのかもしれません。

しかし、日を追うごとに、そんなアピール行動も無くなっていきました。
後ろ足は両方とも動かなくもなりました。
もう介助無しでは立つことも自ら身体を支えることも出来なくなってしまいました。

表に排泄に出て来る頻度も減り、私が散歩でそのお宅の前を通るいつもの時間にも会えない日が多くなりました。

1日1日の変化は小さいかもしれない。でも重なるとそれは大きくなる…
毎日会っていると、その衰えははっきり目にはわかりにくいものですが、何日か日をまたいで会うと、やはり顕著に彼の衰えが見えてしまう。悲しいものがありました。

次に彼に会った時、彼は動きたいのに動かない自分の身体への苛立ちと悲しみの中にありました。

もはや外に出ることも彼の心を救わない。
ほんの少し本来の自分を心の内だけでも取り戻すことすら許されなくなっていました。

もう前足も力が入らなくなり、ご主人は大きい彼の全体重を支え持ち上げなければなりませんでしたが、持ち上げられても彼の四肢は力無くだらんと地面を引きずられるだけ。

行きたい方向を身体で示すことも叶わなくなった彼は鳴いて意識表示をするしかありません。

その声には彼のやるせなさと悲しみが満ちていて、胸が締め付けられるようでした。

ああ、今の彼の悲しみは、あの時の高齢男性と同じ痛みの悲しみだ。そう思いました。

向き合わざるを得ない衰え。
もうこれまでの自分ではないことを受け入れる悲しさ…
彼の心は泣いていました。

なんで出来ないの
なんで動かないの
こんなのは自分じゃない

そんな心の叫びが彼の声の奥底から伝わってきて、涙がこみ上げました。

大丈夫!カッコいいよ
それでも君は、変わらずカッコいい
私は心の中で一生懸命彼に伝えていました。

私には動物達の心を読む力もある。でもそれゆえ、時に彼らの声無き心の痛みも伝わってきて、自分の痛みのように打ちのめされることがある…

この時も彼の悲しみがいつまでも私の内に残り、しばらく眠れなくなるほどでした。

とにかく朝も夜も、気付けば彼のことばかり考えてしまっている私がいました。

その後一度だけ、少し遠目から彼の姿を見ました。

もう全てを受け入れざるを得ない諦めと、静かな、でも深い悲しみがその背中から溢れていました。

彼は訴えるように哀れな声をご主人ご夫婦に向かってあげました。

もういい
横になりたい

介助で身体を支えられることさえ、もう彼の身体には苦痛でしかないようでした。

そんな彼をなだめるように、ご夫婦に頭を撫でられながら、彼はふたりがかりで支えられ家の中に消えていきました。
それが私が彼を見る最後になりました。

その後、彼はもう頭を持ち上げることすら出来なくなり、完全に寝たきりになって数日後に息を引き取りました。

いつも毅然としていた凛々しい彼らしい、静かな誇り高い最期であったそうです。

訃報をご主人から聞いた時、覚悟していたといえ、言葉に出来ない色んな思いに打ちひしがれました。

別れは悲しい。でも彼は、動かない身体から解放され自由になったんだなと思うことで、私もどこかで救われたかった…

だからかもしれない。霊視しようとして視たのか、勝手に流れてきたのか、今になったらわからないけれど、彼が息を引き取ってから3~4日後ぐらいだったか、彼のことを考えた時に彼の思いが流れ込んできました。


鑑定で亡くなった動物達を視る時、多くの子がそうであるように、彼もまた、ご家族に対して、「悲しい想いをさせてごめんなさい」と思っていました。

そして、身体が不自由になってしまったことにも「ごめんなさい」と思っていました。

自分の身体が衰えて動かなくなってしまったことは彼自身、本当に悲しかっただろうけれど、今はそれよりもそうなってしまったことをご家族にごめんなさいと思っているのです。

元気じゃなくなってしまって、ごめんなさい
動けなくなってしまって、ごめんなさい
沢山お世話してもらわなければならなくなってしまって、ごめんなさい…と


亡き動物達はいつもそう…
自分が病気や老いで、衰えて不自由になってしまったことや動けなくなってしまったことで、愛するご家族達に迷惑をかけてしまったのを何よりも一番に詫びている。

そうなってしまった自分を責め、不甲斐なく感じている。

言い換えれば、愛するみんなに迷惑をかけてしまうからこそ、もしかしたら、自らの衰えが、我々人間以上に歯がゆく悲しいのかもしれない。

彼らだって、「年を取る」ということは理解している。その先に生の終わりがあることも理解している。
でもそれは魂のレベルでの話であって、動物達は我々人間よりも、魂の意識と肉体の意識がより繋がっていることが多いとは言え、やはりそれでも、生きている時は、実際に動きたくても動けなくなっていく自分の肉体の衰えに対しては、肉体の意識は魂の意識ほどには理解しがたい、いや、受け入れがたいことなのかもしれません。

彼らにとって、本来の健康で元気な自分でいることこそが、愛してくれるご家族への日々の恩返しなのです。愛する家族の中での自分の存在意義なのです。

なぜなら彼らはいつも愛する家族のために役に立ちたいと思っているから…
動けなくなって役に立てない自分を申し訳なく思ってしまうのです。

でも彼らに伝えたい。
そうじゃないよ、元気であろうと病んでおろうと、その存在自体が全て愛おしいのだと。
家族の一員になった日から、いつか来る衰えやその先に待つお別れも、ちゃんと全てを受け入れ、全てを愛する覚悟で、共に生きているんだと。

だから自分を責めなくていいんだと。詫びなくていいんだと。
共に生きてくれたこと、それだけで充分私達は喜びと幸せを与えてもらえたのだと。

亡き子へのそんなご家族の想いはやがて彼らにも伝わり、彼らも安心して天に向かっていくことになるのだけれど、死後まだ日が浅かったり、詫びる思いが深い責任感の強い子だと、しばらくは「ごめんなさい」の思いがこうして先に立ってしまうのです。

亡き彼も、生前、自分が家族を守っているという使命感と責任感の強い子だっただけに、自らの肉体の衰えをことのほか不甲斐なく感じていたのでしょう。
それが、彼の悲しみをより深くもしていた…

今、確かに彼は不自由な肉体からはもう解放された。

「おとうさん、おかあさん、もう大丈夫だよ。もう動けるようになったよ」
だから彼はそうご家族にも伝えたいと思っている。

ご主人の前でシャキッと立って見せたり、歩いてみせたり、周りをくるくると小走りしてみたりするのだけれど、わかってもらえていないのが歯がゆく、元気の無いご家族の姿に、なおさら今なお、申し訳なさを感じてしまっているのです。

でも同時に、好きだったお庭で、風やお花の匂いを感じたり、木々から漏れる柔らかな陽の光に包まれたり、そんな生前の何気ないけど満ち足りた幸せな日々を思い出し噛みしめている穏やかな彼も感じたので、彼もまた他の多くの亡き動物達と同じように、じきにご家族の愛情によって救われ、自分の役目を全う出来た誇りを取り戻し、満足、安心して天に向かうことでしょう。

いつもかっこよかった彼。まるで昔ながらの侍のような風情すら感じた彼。
だけど本当に優しく穏やかだった彼。
そんな彼の思い出を胸に、私も彼の悲しみが一日も早く癒やされることを、彼の冥福と共に祈りました。

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人は頭ではわかっているつもりでも、実際に自分がその立場にならなければ真にわからないことも少なくありません。

年を取るということだって、それがどういうことか、自分も年を取ってみないと、若い時にはやっぱり真にはわからなかったりします。

以前、電車に乗り込む人の列で、お年寄りの後ろにいた女子高生が「じゃまや、どけ」と、聞こえるか聞こえないかの声でお年寄りに向かって言いながら、その背中を押しのけて乗り込む姿を見て、驚いたと同時に悲しい気分になったことがありました。

頭ではお年寄りはいたわらなければならないと知っていても、若い肉体の意識では、それがなぜなのか、実感を持っての理解が出来ないのでしょう。
自分の肉体の感覚の範囲でしか想像が出来ないのです。

勿論その女子高生のような人はごく一部かもしれません。
でも、大なり小なり誰しもが、若い時には年を取ることは未知の世界でもあるのです。
今まで当たり前に出来ていたことが出来なくなっていくということがどういうことか、そしてその悲しみがどういうものか、その立場にならなければ、真にはわからなかったりするのです。

だから時に自分の感覚の物差しで相手を見てしまう。なぜ出来ないのとイラついたり、馬鹿にしたりも出てきてしまう。

哀しいかな同じ人同士であってもそうなのです。それが対動物となると余計に、その痛みや悲しみを我が事と同じように感じるのは難しいかもしれません。

けれど、痛みや悲しみは人も動物も同じです。
むしろ動物達よりも時間をかけて老いていく人より、命の時間の短い動物達のほうが老いに向かう速度も早いだけに、自らの急激な衰えの変化を受けとめるのは人以上に酷かもしれません。

動物達だって年を取るのは悲しい。
出来なくなってごめんなさい、そういつも思いながら懸命に生きているのです。

愛する家族であり我が子でもある動物達が老いていく時、どうかそれをわかってあげて下さい。
後悔の無いよう、それまで以上に愛情を注いであげて下さい。

そして、家族であれ街で会う方であれ、どうかあなたのまわりの高齢の方に、心に寄り添う思いやりを持って接することの出来るあなたでいて下さい。



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想像力の欠如は、時に他者の痛みがわからない人を生んでしまう。

他者への思いやりとは、もし、それが自分だったらどう感じるか、相手の立場になって考えること。

相手の痛みや悲しみを我が事のように感じられてこそ、真の優しさに繋がる。

それが出来るか出来ないかは、想像力の有無なのだ。

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「時の交差」で亡き最愛の人との事例をご紹介した後、大切な存在を亡くされた方からの鑑定依頼が続きました。


その内のある女性が、こんなことをおっしゃいました。


『この世を去った彼は、もうこれ以上、年を取ることなく、いつまでもその時の年齢の彼のままじゃないですか。だけど、私はどんどん年を取っていく。


天国から見てる彼は、老いていく私に幻滅しないだろうか


やがておばあちゃんになって、彼からしたら、もう母親と息子位に年も離れてしまっても、それでも彼は変わらず愛してくれるのか


そんなこと思ったりしてしまうんです。


そうしていつか私も天国に行くことになって、あの世で彼と再会出来ても、あの日のままのまだ若々しい彼と、腰が曲がって顔に深く皺も刻まれた年を取った私では到底釣り合わなくなっている。


それでも彼は私を抱きしめてくれるだろうか。

昔のようにキスをしてくれるだろうか。

天国でも昔と変わらず、私を愛して共に暮らしてくれるだろうか。


そんなことを、彼が逝ってから年月を重ねるたびに、鏡に映る自分を見て、考えてしまうんです。


いっそのこと、あまり年を取らない内に、まだあの頃の面影を残している内に、寿命が尽きたほうがいいんじゃないか、なんて思ったりしてしまう自分もいて。』



切なくも愛おしい女心です。

ぐっと涙が込み上げ、彼女を抱きしめてあげたい思いでいっぱいになりました。



よく漫画とかで、死の床で最期を迎えようとしている老いた女性の上部に、今は亡き夫が迎えに現れ、肉体から抜けた彼女の魂の手を取り、2人で天に昇っていく。そんなシーンがあります。


そんな場面では大抵、肉体から離れた瞬間にみるみる魂の姿が若返って、若く美しい頃に戻っていく。


感動的な涙を誘う場面です。

実際そうであればいいのになと思います。



では、肉体から魂が抜けたらすぐ、そんなふうに若返るのか


厳密に言えば、そういう場合もあるでしょう。

魂は死後若返る。それは事実です。


でも、それは肉体から抜けた瞬間と言うよりも、日と時間を追って徐々に、という方が多いようです。


一般的には早くて翌日から数日後。四十九日の内に徐々に、という場合もあれば、天国である霊界に入ってから徐々にという場合もあるし、いずれのタイミングに関わらず、ある時を境に急にという場合もあるでしょう。


それは、その人その人個々によって差があるからです。


例えば重い病気で長患いの末に亡くなると、魂が若返るのにも時間がかかる場合も多いようです。


勿論これも人によって差があるので、あくまでもそういう場合が比較的多いようだという意味です。


これには訳があります。

魂が肉体から抜けるというのは、これまでまとっていた服を脱ぎ捨てるようなもの。

もう当然、服と自分は別の存在になっているように、死の瞬間からは生前の肉体と魂は別の存在になる訳です。

魂となった自分からすれば、今までまとっていた肉体は、もはや脱け殻となったひとつの物体であって、もうそれは自分ではない。


従って、感動的な漫画のシーンのように、その瞬間から魂の本来の姿に戻って若返っても不思議じゃないし、不可能でもないはずなのです。


でも大概がそうでもないのは、魂に死後もしばらくは肉体の記憶というか影響というようなものが残っているからです。


生前の肉体の「感覚」であったり、或いは「思い」であったりを残像のように引きずってしまうと言えば良いでしょうか。


その程度の差が、個々の差に繋がっているのです。



ちなみに犬や猫を始めとする動物達にも同じことが言えるものの、彼らは人間と違い、「感覚」や「思い」がもたらす肉体の負の影響は、圧倒的に消えるのが早い。


例えば、「感覚」の場合で言うと、痛みや苦しみといった死を迎える前の症状がどんなに重くても、肉体を抜けたら比較的すぐ早くに回復する。


多くは死後、数分から数時間で爆睡するような状態になって、その間に魂の疲れを癒やし、翌日か数日すれば、目を覚ますように魂が起き、もうその時点で痛みも苦しみも消えて解放されている場合がほとんどです。


ただし、これは愛の中で生き、愛の中で死を迎えた子達に限るかもしれません。

彼らは自分の肉体の寿命を悟って、魂が自然に死を受け入れることが出来るからです。

それも愛の中で生きた絶対的な幸せがあるからこそ、「思い」の部分で、自分の生涯に満足し感謝し納得出来ているからでしょう。


これも人間同様、その子その子によって色んな差はありますが、まず愛されてその生を終えた動物達は長くは生前の負の「感覚」や「思い」は引きずらないと言えます。


反して、殺処分や動物実験、毛皮、虐待、食肉にするため等々、この世における、人間がもたらすあらゆる動物達の命を奪う行為は、もっと生きたい死にたくない助けて、という叫びの中で彼らに死を強いているから、そういう理不尽な死は、命を奪われた後も魂は苦しみ続けてしまう。

死してもなお、その恐怖や苦しみ悲しみなどの「思い」や、苦しみ、痛みなどの「感覚」に魂が捕らわれてしまうのです。

本当に残酷で無情で、絶対に無くすべき人間の愚かな行いです。



話を人間に戻しますが、動物達に言えることは実は人間にも言えることで、魂が納得してその生を終えられたか、それによって死後の魂の状況にも個々、差を生じさせるものなのです。


長患いの末に亡くなった人でも、肉体を抜けてから翌日、というように比較的すぐに若返る場合もあります。


要はその人の心の問題であり、「思い」の感情エネルギーがどれだけ魂に強く刻まれているかによるのだと思います。


「思い」がとても強いと、魂にもその時の感情が刻まれてしまうからです。


例えば、肉体の意思ではどんなに死に抗っていても、魂の意思では寿命を受け入れ、どこか静かに心穏やかな部分があれば、肉体と肉体の意思の影響は魂には強くは及びません。


でも恨みや怒り、執着など、死や生に対して強い負の念があれば、その「思い」のエネルギーは魂に傷を残すように刻まれてしまいます。


強い念は死後もいつまでもその人を亡き肉体の残像に縛り付け、もう実際には消えて無くなっている肉体の感覚が、もうそんなものは存在しないのに関わらず、あたかもずっと消えずにまだ在るかのような幻想の中に留めてしまいます。


その念が強いほど、亡くなるまでにまとっていた肉体の姿を長く引きずる傾向があるのではないかと思います。


でも所詮、物質世界でまとっていた肉体は仮の姿。モビルスーツのようなもの。魂の姿こそがその人の本当の姿。


肉体は老いても、魂は何も変わらず、肉体の中に在る時でも肉体から離れた後でも、ずっと本来の美しい姿のまま。


だからいずれはみんな本来の若く美しい姿に戻っていきます。


どんなに思いの念を抱えていても、その念が魂に傷を残してしまっていても。


霊界に入る前のリハビリ層である幽界はそのためにあるとも言えます。

人も動物達も、ここでの一般的に四十九日と言われる期間に、思いの念や魂に残った肉体の感覚などの負の残像を癒やしながら、光の世界である波動の高い天界に入るために自らの波動を上げていき、天に向かう準備をしていく。

そのサポートは天界が手厚くしてくれます。


ある意味、幽界に入ってさえしまえば、後は安心と言えるでしょう。


ちなみに、俗に未成仏霊と言われる者達は、あまりにも念が強すぎて、天からの導きの光すらスルーしてしまうほどに現世に猛烈に執着していて、自らが天に行く選択をすれば、いつでも天に帰れるのに、また天も絶えず導きを試みてくれているのに、自分自身で現世に留まる選択をしてしまっているのです。それも本人の魂の学びなのかもしれませんが。


さて、話がずれてしまいましたので、元に戻しましょう。


このように、魂が若返るタイミングというのは、その人その人個々に違う訳ですが、全体的に見ると、案外死後1~2日で若返っている人が比較的多いのではなかろうかとも思います。


と言うのも、以前、私の知り合いの先輩霊能者の方から耳にした話があって、何でも、亡骸を荼毘に付す際、亡くなったご本人も案外参列者の中に紛れて、亡骸とお別れをしていたりもするんだとか。


「もう自分は魂が若返っているから、自分の亡骸を見て、『随分使い古したもんだなあ』と思って見てたんだって言う故人は多いわよ」と仰っていました。


かつての自分の身体に、特別な感慨や悲しみというものは案外もう無く、結構あっけらかんと第三者的に見ておられるそうです。


きっともう本来の魂の姿である霊的な身体こそが自身の今の身体となっているからなのでしょう。


遺していく者達の悲しみを思うと心配や心残りは当然あれども、そういう方達は終えた生に負の面での未練や執着が無いからこそ、魂の存在となってからの切り替えが早いのだと思います。

だからこそ、数日で既に魂が若返っているのでしょう。



では一口に若返ると言っても、どれくらい若返るのか。みんな20代位になるのか。

実はこれにも個人差があるようです。


前述のように、時を経て徐々に若返っていく場合もあるでしょうし、すぐの場合もあるし、一定期間の後のある時期を境にして若返る場合もあるでしょうが、いずれの場合においても、最終的には、その人が一番自分らしいと思える年齢あたりに落ち着くのではないかと思っています。その人が自分を象徴すると思う姿が反映されるということです。


それが20代位の若さ溢れていた頃である場合もあるでしょうし、高齢で亡くなられた方の場合は60代位の時を一番自身を象徴する「自分」だと思われる場合もあるでしょう。

例えば一旦は60代位の姿に戻り、天に帰って過ごすうちに、更に若返っていくというような場合もあるでしょう。


それも個々が思う「自分」が、その時々に反映されていくのだと思います。



ちなみに、先述の荼毘に付される自分のかつての肉体にお別れされている方々も、いきなり20代の頃の姿というよりも、50代60代の頃の姿になられている場合が多いようです。


人生を長く生きていると、ただ若さだけを良しとするのではなく、様々な経験を経て人としての深みを増すことにこそ、むしろ重きを置き、そして、そういう人生の円熟期の頃の自分を、一番自分を反映している姿として、多くの方が捉えておられることがわかります。


そう考えると、今こうして人生を生きている私達にとっても、いつかこの世を去る際、自分の生涯を振り返った時にきっと、毎日毎日の日々の経験や学びこそが何にも代え難い人生の宝となり、魂の宝ともなるのであろうことを教えてくれてもいるようです。


生きていると辛いことも時には多いけれど、それすらも過ぎてみたら、そこから得た経験は、尊い魂の財産となるということです。


私達はみんな正に今、そんな宝の時の中を歩んでいるのです。



さあ、ここまで死後に魂は若返るのかについてお話しして参りましたが、実は私にも忘れがたいある出来事があります。


かつて近しい人が亡くなった時に、その人を霊視してみたことがあって、その時のビジョンが今も深く心に残っているのです。


それはその人が亡くなった当日遅くであったか翌日であったと思います。

今どんな状況にいるのかと霊視すると、白い光の中で、上半身裸でぐっすりと眠っているようでした。


美しい光の世界。

明るいんだけれど眩しくなく、淡く暖かく神々しくも優しい光。

そんな光の中、真っ白なシーツかブランケットのような物の上で、少し首と身体を右横に傾げて、両手を軽く曲げ顔辺りの位置に置いた姿勢で、その人は眠っていました。


穏やかな顔でした。まるで生きている時のように、普通に深く寝入っているかのようでした。


ああ、きっと、死後の最初の眠りに入ったんだと思いました。


生から死への移行という一大イベントを終えて、あー疲れた、とりあえず寝よう、と爆睡するかのように


翌日、再び霊視してみると、昨日と全く同じ光の光景の中、寸分違わず全く同じ姿勢で、その人はまだ眠っていました。


ただ一つ違っていたのは、その姿が若い頃のその人になっていたということです。


亡くなる前のその人は太っていました。中年期辺りから体重が徐々に増えだして、細身であった20代30代の若い頃とは別人のように、二周りも三周りも立派な体格になっていたのですが、そこに視たその人は正に、ほっそりとしていた若く美しい肉体の頃のその人だったのです。


その時私は、ああ、人は死後こんなふうに若返るんだなと自然に涙が零れました。


私達が寝て疲れを癒やすように、その人も死後の眠りの中で、肉体の残像である死の痛みも癒やされ、魂が浄化されたんだなと思いました。


そして、生前に肉体の姿がどう変わろうと、今の姿こそがその人の魂の真の姿であり、その人はその本来の姿に戻ったんだなとも思いました。


その人が死後そんなに時間を置かず早くに本当の姿に戻ったことは、その人が死の全ての負から解放されたということなんだと、悲しみの中にありながらも安堵したのです。


その後しばらくして、その人はその日のうちに目覚めたようですので、もしかしたら本人が一番びっくりしたかもしれませんね。

起きたら若返って昔の自分の姿になっているんですもの。

その人もきっと、その翌日の亡骸を荼毘に付す場に立ち会ったのではないかと思います。



人の死後の若返りは元々わかってもいたし、人と動物も同じだということも、死後の動物達の鑑定において、霊視を通じ常日頃からリアルに接していたことではあったけれど、こうして実際に人の場合の若返りの経過をタイムリーに視たことは、言葉に出来ない感慨がありました。


この時の経験は、その後の私の死生観に更なる深みを与えることになったかもしれません。



私はこの体験を、冒頭のご相談者の彼女にも語り聞かせました。


彼女は涙ぐみながら、「日々の中で、老いていくことに怯えて過ごすのでなく、この毎日の積み重ねこそが宝なんだと思って、生きることを楽しまないとダメですねそうでないと彼にも怒られちゃいそう」と泣き笑いするように言いました。


そう。何も心配することはない。

老いていくのは、あなたがまとっている肉体という服に過ぎない。

その内に在る真のあなたである魂はいつも若く美しいまま。何も変わらない。


そしていつか亡き愛する人と再会する時、彼の目の前には、美しく輝くあなたがいる。


そう伝えました。



例え肉体が老いていったとしても、例え先天的にしろ後天的にしろ何らかのハンデを肉体が抱えていたとしても、それはあくまで今生での仮の姿。


魂の長い旅路からすれば、ほんのひとときのまとい物。


肉体から離れた後にはもう何のハンデもない本来のあなたに戻る。


そして、今も、あなたの今生の日々の中でもあなたの内には、美しく輝く真のあなたがいる。


それを多くの人に知っていて頂きたいと願ってやみません。




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愛猫を亡くされた方からご相談がありました。


数日前から、なぜかやたらによく鳴いていたのが気になってはいたそうですが、それ以外、前日前夜まで、特に何か変わったことがあった訳でもなく、朝起きた時には既に息絶えていたという、突然の予期せぬお別れでした。

もうすぐ19才になる高齢の猫ではあったものの、いまだ食欲旺盛。持病も無く、まだまだ元気だったことから、もっと長生きしてくれるだろうと、いつか来るお別れもずっと先のことのように思っていただけに、ご相談者Aさんのショックもかなりのものでした。

この亡くなった猫、キコちゃん(メス)にはアコちゃん(メス)という生まれた時からずっと一緒の姉妹の同居猫がいます。
(プライバシーに配慮して名前は仮名にしています)

この二匹とAさんの出会いは約19年前。

当時住んでいたマンションで、彼女がご主人と共にくつろいでいた夜も更けた時間帯。
周りの喧騒もすっかり消えた静かな街のどこからか、子猫の声がしていることに気付きます。
初めは特に気には留めず、片付けなどしだしたものの、一段落ついても、か細いその声はまだ聞こえています。

一度は床についたものの、何かを訴えるような、助けを求めるような、そんな声がどうにも気になり、もう何時間も鳴き続けているのは、やはり何かおかしいと、ご主人と共に子猫を探しに外に出てみたのです。

声はどうやらマンション敷地内の庭の草むら辺りから聞こえてくるようです。

しかしもう深夜。闇の中の草むらから探し出すのは至難の業です。

それでも彼女らは鳴き声を頼りに、草をかき分け懸命に探しました。
そして、本当にわかりにくい場所に隠されているように居た二匹のまだちゃんと目も開いていない子猫を見つけるのです。

彼女はこの幼き子猫達を放っておくことが出来ず、保護しました。

彼女曰わく、「野良で、母猫が育児放棄してたみたいです」とのこと。

「翌日獣医に診てもらったら生後5日位と言われました。
当時は動物NGの住まいだったため、はじめはそこの動物病院にしばらく預かってもらって、飼い主を探すつもりでいたのですが、ちょいちょい様子を見にいくうちに情が移ってしまい飼うことになりました。」
と、Aさんは子猫達が家族の一員として迎えられるに至った経緯を最初のメールでこう綴ってくれています。

こうして生まれてからずっと一緒の姉妹の猫は、Aさん達の元で、その後も共に寄り添って同じ月日を生きてきたのです。

世の中、上には上があるとは言えど、一般的に見れば19才という年齢は猫にしたら超高齢とも言える訳で、でも二匹共に、これまで持病もなく、健康に過ごしてきたということからも、いかに日々を満たされて過ごして来れたかが伺い知れます。
時々喧嘩はすれども、そうは言ってもやっぱり仲の良い、そんな二匹でした。

そんな分身のような姉妹を亡くし、遺されたアコちゃんもどれほど動揺していることか。
私はそれも心配でした。


亡くなったキコちゃんの霊視をしてみると、死後日が浅く一週間も経っていないこともあり、天への入り口である幽界にはまだ上がってはいないようでしたが、もう光に包まれ、今日明日にも上がるであろう様子でした。

でも、キコちゃんが亡くなってから食欲も元気も無くしてしまっているアコちゃんのことを気にしているようでした。

そんな亡きキコちゃんを見守るように、完全に光に包まれた「光の存在」である別の猫が浮かび上がって視えていることに気付きました。
キコちゃんを導く、キコちゃんの守護存在だろうかと思いました。

意識を向けた時、その答がわかりました。

それは、キコちゃんとアコちゃんのお母さん。…そう、姉妹の母猫だったのです。

判明した事実はこうです。

その茶トラ模様の母猫は、生まれてまだ間もない乳飲み子の我が子達を安全な場所に隠し置いて、その日、食べる物を探しに出掛けました。
子猫達にお乳をやらねばなりませんからお腹も減るでしょう。

しかし不幸なことに、道路を横断していた時に運悪く車にはねられてしまったのです。茶トラのお母さん猫は子猫達を遺して絶命してしまったのでした。

どんなに心残りだったか。
自分が居なければ生きていけない子供を遺し先立つことが、どんなに叫ぶほど悔しく、受け入れ難かったか。

ちょっと待って
わたしはまだ死ぬ訳にはいかない!
子供達の元にわたしを返して!

そんな狂うばかりの思いも、壊れた身体にはもう応えることが出来ませんでした。

Aさんは、子猫達が母猫に飼育放棄されたと思っていましたが、実はそうではなかったのです。

戻りたくても、その肉体はもう、戻ることが叶わなかったのです…

それでも母猫は霊体になって子猫の元に戻りました。子供達の元に帰りたい。その必死な思いからです。
でもお腹をすかせて子猫は母親を呼び始めます。
けれど母猫にはどうすることも出来ない。

母猫は誰か助けて誰か気づいてと願いました。

それに応えたのがご相談者のAさんだったのです。
心優しい彼女だからこそ、それが届いたのでしょう。

こうして優しい人達に救われた子猫達に母猫はずっとついていました。
Aさんの家にもついて行きました。
病院に預けられてる間も子猫達と一緒にいました。

子猫達を助け、病院にも度々様子を見に来るAさんがいっそのこと子猫達を迎えてくれないだろうかと母猫は思いました。
そして母猫の願いは再びAさんに通じました。

離乳してご飯を自分で食べられるようになった頃、子猫達はAさんに抱かれ、病院を後にして彼女の自宅に迎え入れられる訳ですが、その時も母猫は自宅までついて行っています。

家族として迎え入れてもらったことを見届け、母猫はようやく心から安心出来ました。

ここなら大丈夫
わたしの大切な子供達はここで可愛がってもらえる
お腹いっぱい食べる物をもらえて、安全に、幸せに、姉妹一緒に仲良く生涯を過ごせる

そう確信できたのでしょう。

そうして母猫はやっと天に上がることが出来たのです。


茶トラのとても愛らしかったお母さん猫。
本来ならばもうとっくに幽界を経て、霊界(天界)へと上がっていた頃であったでしょう。

でも子猫達の行く末が心配で子猫達を遺して行くことが出来なくて、母猫は天に行くに行けなかった。

でもAさんという救いの手がもたらされたことによって、母猫も救われた。
そのおかげで、やっと安心して、行くべき場所に向かうことが出来たのです。

Aさんは、二匹の子猫達だけでなく、こうして亡き母猫をも救っていたのです。
そう、三匹の猫を…


よく猫の恩返しなどと言うけれど、その後、天に帰った母猫と天界の存在達から、Aさんにお礼がもたらされています。
助けてくれてありがとう、という感謝と共に。

Aさん曰わく、当時、それまでなかなか決まらなかった仕事が急に決まったりとかあったそうですが、それより何よりもAさんが受け取った一番大きいものは、彼女と家族の日々の健康と無事です。

当然ながらAさんは気付いていなかったけど、Aさんと家族はずっとこの母猫に守られていました。
Aさん達を守ることは、我が子達を守ることでもあったから…

母猫は二匹の子猫を産んだ日から、いや、お腹に宿った時からと言っていい。自らの生命を終えてからもずっと、我が子達を守ってきた。19年という年月のこれまでも、そして今も、なお。

またそして子猫達がAさんの家族の一員として迎え入れられたあの日から、時が流れても変わることなく、Aさんと家族のことをも…



その結果、この19年の月日の中で、Aさんは彼女の魂がずっと望んできた自分らしく生きるという未来への歩みも果たすことが出来たようです。


私達は気付いていないけれど、本当に沢山の見えない愛の力にいつも支えられている。

彼女もまたそうであったのです。


彼女は子猫達のことを飼育放棄されたと思い込んでいたから、戻りたくとも戻れなかった亡き母猫のことなど知るよしもなかった。

ましてその子が子猫達のみならず自分達家族のことまで守ってくれていたなんて、微塵も想像すらしていなかったのですから。


そんなふうに、私達はただ知らないだけで、自分の起こした愛の行動が種となり、やがてどこかで新たな芽や縁を生んでいることだってあるのです。


私は思います。
『自らの行いは良いも悪いも自らに返る』と…

Aさんが子猫の鳴き声に気付いた19年前のあの日の夜。
当時住んでいたマンションには住人も沢山いた。
当然鳴き声に気付いた人も少なからず居たでしょう。でもAさん以外誰も、実際に子猫達を助けに行こうとした人は居なかった。
Aさんとご主人だけが、思いを行動にしたのです。

この彼女の優しさと行動が、後に彼女を守り導く愛の力になって彼女に返ったのだと…

愛は巡る
愛あるところに愛は更に大きくなって巡り来る

そんなことを改めて痛感しました。

Aさんにはこれからも、そんな心優しい素敵な彼女のままでいてほしいと思います。


さて、もう一つ私が気になっていたこと。それは遺されたアコちゃんのこと。

ずっと側に居た存在が突然居なくなる悲しみ。
これは人間だけでなく動物達とて同じ。

彼らの方が人間より魂の意思と肉体の意思が繋がっているから、彼らは魂レベルで死を人間以上に自然に受け止め理解しているところもあるとは言えど、もうその温もりに触れることが出来ないこと、声や姿をもう聞くことも見ることも出来ないこと、その悲しみや淋しさは彼らだって同じなのです。

いえ、もしかしたら彼らの方が人間以上なのかもしれない。
なぜなら、彼ら動物達は愛そのものの魂の存在達だから。

だから彼らは時に人間以上に豊かな感情を持つことさえある。いえ、これも、人間をはるかに上回っているのかもしれない。

それゆえ、仲間が亡くなった後、病気になったり、まるで後を追うように亡くなってしまう例も決して少なくない。
(以前『見えない涙』の項で詳しく取り上げています。ご参照下さい。)


何もわかっていないよう感じていないように見えても心の内に大きな悲しみを秘めているかもしれないのです。

ですから私はAさんに、これまで以上に、最大限、遺されたアコちゃんをいたわり愛してあげてほしいとお願いをしました。

スキンシップと優しい声かけ。一緒に寝てあげる、など、出来ることは全て全身全霊でしてあげてほしいと。

アコちゃんは生まれた時からずっと19年もキコちゃんと共に生きてきたのだから、なおさらです。
アコちゃんの悲しみを思うと何ともいたたまれない思いでいっぱいになりますが、心優しいAさんですから、きっとアコちゃんを守り癒やしてくれるはずです。

それに、これからは母猫だけでなく、キコちゃんも一緒に、遺されたアコちゃんとAさん達を守ってくれることでしょう。

だからアコちゃんもきっと大丈夫。
今はそう信じています。


そして、Aさんに手厚く愛情をかけてもらっているアコちゃんの様子を見たら亡きキコちゃんも安心出来るでしょうから、キコちゃんもこれからお母さんに導かれて天へと向かうことでしょう。

いつか天でまた会う日まで、しばし離れて過ごすことになるけれど、キコちゃんとアコちゃんは「二個一」みたいなところがあって、過去世からずっと一緒の魂だから、天で再会したら、またずっと共に、そして恐らく来世もまたずっと、寄り添っていくことでしょう。

その日が来るまで、アコちゃんにはキコちゃんの分まで、さらにうんと元気に長生きしてほしいものです。

ちなみに、キコちゃんアコちゃんがこれまで病気も無く健康に長生きしてこれたのも、親猫から受け継いだ遺伝子というのもあるでしょうし、心優しいAさん達の愛の元で穏やかに楽しく過ごしてこれたことも大きいでしょうが、何より亡き母猫が守ってくれていたからだということも、もう言うまでもありませんね。

健康に生きられる遺伝子を受け継ぐこともまた、親からの愛のプレゼント。

キコちゃんアコちゃんは早くにお母さんを亡くしてしまったけれど、その身体にもちゃんとお母さんの愛を宿して、そして天からもずっと愛され守られてきたのですから幸せです。


母の愛に種の違いはない。それはどこまでも大きく深く暖かい。

それをこの茶トラのお母さん猫が改めて教えてくれました。


鑑定を終えてAさんは言いました。
「命は尊くてかけがえないもの、決してあって当たり前のものではないもの…
ということが、今回よくわかりました。」と。

そして彼女は子猫達を遺して命を終えねばならなかった茶トラのお母さん猫にも想いを馳せ、泣いてくれました。

茶トラちゃんもAさんに自分のことを知ってもらい、自分にも愛を向けてもらえたことが、きっと嬉しいはずです。

だって愛は何にも勝る、魂にとっての財産ですから。Aさんの優しき愛は茶トラちゃんの冥福にもきっと繋がることでしょう。



この世には生と死がある…
生きることは常に死とも隣り合わせ。
この瞬間まで輝いていた生が次の瞬間には無くなってしまうことだって、この世ではある。
それが物質界というこの世の定め。

けれど例え死が肉体を奪っても、魂と愛だけは決して無くなりはしない。

死という別れは悲しいものだけど、愛はきっとそれを越える…

今回のご相談事例も悲しいお話しであったけれど、やっぱり、そこにこうして大きな愛がありました。


そして今回のお話しを通して、Aさんと同じように心優しい人達に伝えたい。

もし母親の居ない子猫に遭遇した時、もしかしたら、その子猫達は今回の事例のように、母猫が何らかの事情で子猫の元に帰れなくなってしまったのかもしれないこと。

その子猫達には、「どうかこの子達に救いの手を差し伸べてほしい」という母猫の願いがかけられているかもしれないこと。

あなたがもし、その子猫達を救った時、その子達だけではなく見えない別の子をも救えるのかもしれないということ。

そんなことをどうか頭の片隅にでも覚え置いていて頂けたらと思います。


そしていつかあなたの前に助けを必要とする、か弱き存在が現れた時には、どうかその優しい手を差し伸べられるあなたでいて下さい。

その優しさはいつかきっとあなたを助けてくれる力になって、あなた自身に戻るから…


世界が優しい人でいっぱいになって、全ての動物達が皆、愛と喜びの中で生きられることを心から願っています。






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