「人生一番の楽しみがシャワーと洗濯だってのに…この傷のせいで地獄見たぜ」
洗面所の鏡に何とか背中の傷を映す。血ではなく膿が固まっていた。傷をぐるりと囲う、ミシン目のような小さな穴がカサブタになっていた。
アヴェ・マリア専属医療班は慈しみ信愛病院のトップ外科医。のはずだが、都市長は「痛みを和らげることよりも如何に早く戦線復帰できるか」に重きを置いた治療をするよう命じている。まあ元々、都市のイデオロギー歪みまくってるから当事者しか文句が出ないのは当たり前だが。
故に俺の背中の鎌傷はしばらくホチキスで閉じられる事になった。
「私もホチキスはやり過ぎだったと思います。特に兄さんは非戦闘員ですし…フロストフェローであるからこその選択だと思えば、都市長が可愛く見えるかもしれませんね」
俺の背中をシャツ越しにさすりながらホリンは言う。そして小さなゴミ箱を手に携えると、俺の隣に並んだ。
「さぁ、兄さん。片付けちゃいましょうか」
「お前がやればいいだろ」
「兄さんがしなくちゃ意味が無いんです」
ランディがフロストフェローを出て丁度二か月がたった。
俺とヴァイゼの根回しでランディの情報は何とか改ざん。しばらくはゴミ収集車がランディの手配書まみれになった。
あの出来事はフロストフェローの戦線記録にすらならず、土地の記憶からも埋もれ、もう誰の記憶からも消え去ったようだった。俺のような小心者の冒険なんてそんなもんだ。
洗面所の鏡に俺が映っている。ポストイットを剥ぐだけだと言うのに、何やら気難しそうな顔で。
一枚ずつ剥いで、妹の持つゴミ箱へ捨てていく。これはもう要らないものだと、あの日の出来事が強く物語っている。
俺には仲間がいるし、支えだってあるし、
「帰りたい」という気持ちを押し殺してまで笑う必要だってない。
ずっと前からわかっていたはずなのに自分の中で折り合いをつけずにいた。だけど良い機会だ。
ポストイットが無くなった鏡にはホリンも映っている。
「…こうなったらこうなったで、なんだか寂しいんだよな。まあ、父さんと母さんに悲観を捧げ続けても、二人とも心配して浮かばれないよな」
「あら、そうですか?そんな事しなくても、二人とも私達の事を見守ってくれていると思うのですが…なら私が…」
ホリンはバッグから同じくらいの大きさのポストイットを取り出すと、ボールペンで迷うこと無く何かを書き、鏡の隅に貼り付けた。そのポストイットでまたホリンが隠れる。
「"I love you"って…お前、今年で二十四だろうが…」
「兄さん、だぁい好き〜!」
小さい頃から変わらず、俺の左肩に抱きつく。怖がっている時も嬉しい時も寂しい時も、こうやって左肩に抱きついてきていた。
ドッと疲れとため息が込み上げる。これが、世界一平等な戦線都市フロストフェローで頂点に輝く能力者なのか…
「あぁ兄さん、そんなに悲しまないでください?寂しいと思う間もないくらい、このホリンが会いに来ますからね?」
「やめろよみっともない…ったく、イザベルに見せてやりたいぜこの醜態」
肩からホリンを剥がしていると、玄関のドアが重く開く音が聞こえる。大きなハンドルを回し閉める音がし、洗面所の入り口からヴァイゼが顔を覗かせた。やたらと陽気に。
「よぅアラストル。背中の傷、痕になるか?」
「鎌の傷よりもホチキスの穴の痕の方が気になる。何とかならないわけ?あの医療。一応、最高峰の医療チーム雇ってんだよなぁ?」
「どうにもならないぜ、都市長の命なんだから」
あの日からヴァイゼは少し申し訳なさそうな態度をとる。本当にあの時、簡単に自殺してやり直そうとしていたんだな。普段は当たり障りなく澄ませて、人間味も見せる割には突拍子もない。
「まぁ、僕の相棒はタフだし、その兄なんだから鎌傷くらい何とかしてくれるだろ?」
「簡単に言ってくれるぜ…で、話って?」
「そう、グランディディエライトの件で」
俺がすぐに鏡から目線を外したのを見てヴァイゼはガキみたいににこりとした。
こいつのこういう所が昔から気に食わない。
「彼女の住処から礼状が来てね。あろうことかその手紙が僕の手に渡る前に、都市長の手に渡ってしまったんだ」
「おい、何やってんだよ。住所が書いちまってんじゃねぇのか?」
「最後まで聞けよ。僕が彼女を捕らえるのに失敗した時、それはそれはお怒りだったんだがトイを殲滅したことで何とかチャラになったんだ。そしてその手紙。内容が感謝の意だったもんで都市長も喜んでいてね」
「結局、ランディちゃんを捕まえずにスカーレットフォレストへ逃がして良かったです。都市長の命に反するのはとても勇気がいりましたが…」
ヴァイゼは少し困って笑う。
フロストフェローを彼の望む形にするには都市長の力を頼らなければならない。さもなくばその恩を裏切ることになるからだ。あの時、よくもあんなに勇気が出たものだと今の俺が過去の俺に感心する。
ホリンが悲しそうな顔で俯いているのを見て、ヴァイゼが少し得意げに指を鳴らした。
「そこでイザベルが一仕事してくれた。これを機に、彼女がこの都市を生きて出入り出来るようになったら、外部からの評判が良い方向に揺らぐんじゃないか、ってね」
「…それってつまり…」
ヴァイゼは廊下の左側に目をやる。小さな足音がして、もう一つの小さな影が壁から覗いた。
緑だか青だかよくわからない髪の毛を揺らしながら。
ホリンが大きく開いた口を見せまいと、自分の口を両手で隠す。
「…ランディ!」
ランディは目を丸くすると、すぐに壁から離れ俺の体に飛び込んできた。初めてあった日と同じ制服を着て。
「アラストル、ホリン!」
「ランディちゃん!どうしてここに…」
ランディに強く抱きしめられ顔が良く見えない。だけどその子は確実にランディで、あの耳障りな小間切れの笑い声を耳元で続けている。
ホリンは嬉しさを隠せずにずっとランディの額にキスしている。
「連れて来たんだ、袖とベネディクトがね。都市長直々にグランディディエライトの護衛依頼を受けた。君が仲間の元を離れてから、再び戻るまで。君の身の保障はこのアヴェ・マリアが持とう…と言いたいとこだが、地下隔離施設に行きたいと言って聞かなくてね」
ランディの小さな指が背中に強く押し付けられている。俺の肩に飴玉みたいな顎を乗せて、サルが木から降りないみたいに、落ちてこない。
ヴァイゼは友達のように笑った。
「アラストルの手柄だな。僕にはできなかった」
ホリンも抱きついてくる。兄妹でランディをサンドイッチしてるみたいだ。
「アラストル!ホリン!また会えて嬉しいぞ!」
「あぁ、俺も…」
上手く声が出せない。背中の傷が痛くて、ランディの声がうるさくて。
「ランディちゃん、今度は沢山遊びましょうね!ここでも、教会でも」
「うん!アラストルも連れてくぞ〜!」
「耳元で騒ぐなよ、うるさいなぁ…」
ホリンが俺の右頬を優しく拭った。
end