お友達がシェアしてて、おもしろ過ぎて
お腹痛くなったコチラ。
もしも矢沢永吉が桃太郎を朗読したら
もう、このタイトルからして期待度は満点なんだけど
読んでみたら、やっぱ爆笑だったー!
お友達が
「トルコ語に訳してシェアして!」って冗談言ってたけど
これ、トルコ語に訳しても全然オモシロくないよね。
まずもって
矢沢永吉について説明するところから始めないといけないし
なんなら
永ちゃんのライブ映像や、歌番組でのトークシーンとかも
いくつか見せないといけないよね。
永ちゃんのキャラや言葉遣い
日本の音楽シーンでの立ち位置とかも含めて
知ってもらう必要がありますからね。
さらにさらに
YAZAWAバージョンじゃない、オリジナル桃太郎も
読んでもらわないと比較できないしね。
と、ここまでしてやっと
「YAZAWAバージョン桃太郎」のオモシロさを
理解できるか否かの土俵に立てる!ってハナシなのね・・・。
遠っ!w
もはや、その労力を考えたら
このオモシロさを共有することを諦めるよね。
逆に、このオモシロさを共有できる外国人には
とてつもない親近感を覚えるよね。
自分がトルコ語を話せるようになってきて感じるのは
“言語を習得する=話せる/相手の言うことを理解できる”
では決してないということ。
その国に暮らす人々の生活習慣や
その国に根付いている文化を知らないことには
ただ単に、文字通りの言葉を理解することしかできないんだな。って。
シチュエーションにもよるけど
トルコでも、ダイレクトに言わずに遠回しに言ったり
はっきりとYes/Noを言わないこともあったり。
あと、とりあえず返事だけは良い!っていうのもよくあるパターン。w
言葉とはウラハラだったり、言葉の奥に秘められていたりする
相手の真意っていうのを汲みとるワザも必要になるのですねぇ~。
そこんとこができないと
「言ってることとやってることが違うじゃん!」
とかなって、摩擦も起きやすくなるという。
そもそも
トルコ人の思考回路や行動パターンを理解できないことには
いくら言葉が分かっても、関わりながら生活していくのは至難のワザかと。
言葉と文化って、切っても切れない縁なのねぇー。
なんてことを
YAZAWAバージョン桃太郎を読みながら思ったのでした

めでたし、めでたし。
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