鹿児島県曽於市「大隅中央公民館」での「令和5年度海軍芙蓉部隊戦没者慰霊祭」に参列致しました | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

「鹿児島中央駅」から
「国分駅」まで電車にて50分。

 

 

「国分駅」から
「霧島市役所前」まで
徒歩で10分。

 

 

「霧島市役所前」から
「岩川」までバスにて1時間。

 

 

「岩川」バス停から
徒歩1分の距離にあります。

 

◆【芙蓉(ふよう)之塔の由来】

 

 

 平和を祈る芙蓉(ふよう)之塔



 鹿児島県曾於市
八合原の一隅に

「芙蓉(ふよう)之塔」と

大書した石塔が
高く建っている。



 この付近一帯は
太平洋戦争の末期、

昭和20年ころ、

岩川海軍航空基地が
あった場所である。


<今回は雨天時につき大隅町中央公民館での開催でした。>

 そのころ、
戦争の相手国であった
アメリカは

多数の兵力で
空・海・陸の全面から

日本の国土を
侵略しようと、

まず沖縄を占拠して
次第に南九州へ迫ってきた。



 この危機に際して、
日本は国家の総力を挙げて

要撃と防衛体制を固めたが、

大隅町も
国家の緊急な命令により

祖先伝来の土地を提供し、
力を合わせて

航空基地を緊急に
造成した。


<海軍芙蓉部隊元隊員 渋谷一男氏による追悼のことば>

 この基地を
使用したのは、

夜間奇襲を専門にする
海軍芙蓉部隊である。


<大隅中学校2年伊地知新太氏による平和メッセージ朗読>

 芙蓉部隊は、

昭和20年3月末

静岡県藤枝基地から
沖縄防衛作戦のために

鹿屋基地へ進出して戦い、


<大隅中学校吹奏楽部による演奏>

さらに同年5月20日、
岩川基地を
最後の根拠地として

終戦まで戦い続けた。


<献花>

 そして
延べ600余機が出撃し、
藤枝基地をあわせて

百余名
(搭乗員及び地上勤務の整備員)
の戦没者を出した。


<海上自衛隊鹿屋基地第一航空群司令による献花>

 この苛烈な
状況の中で、

大隅町の人々は
食糧も諸物資も窮乏し

敵機の空襲に
脅かされても、

基地の隊員たちを
温かく慰問し元気づけた。


<一同・・・。>

 短い期間であるが
隊員と住民の間に

結ばれた心の絆は
戦後も続き、


<・・・拝礼>

その結晶として
昭和53年11月11日に、

住民の発起と推進
並びに元隊員の協力による

芙蓉(ふよう)之塔が
竣工・除幕されたのである。


<芙蓉(ふよう)之塔>

 芙蓉(ふよう)之塔は
祖国を護るために 

若い生命を捧げた
英霊の真情を崇敬し、

世界平和を祈る

精神の集中点として
立てられている。


<英霊のお写真と遺族の方々>

 この芙蓉(ふよう)之塔の
頂きには、

大理石を磨いた
大きな球が載っているが、



これは
英霊の崇高な魂と

平和な世界を
象徴したものである。

「大隅町と芙蓉(ふよう)之塔」の冊子より」



 また個人的にも

謹んで
祓い、鎮魂を
行わせて頂きました。