<碑 文>
大教正髙濱清七郎神道碑
明治廿六年二月廿八日帰幽
門人中
<碑 文Ⅱ>
読み取りできず。
<碑 文Ⅲ>
〇〇濱大霊神
二十五年祭紀念碑
<碑 文Ⅳ>
教祖
大正六年貮月
紀念碑建立
貮拾五年祭
者起發
青木正教 以下56名以上
<碑 文Ⅴ>
請負人
京橋區木挽町一号目五番地
村 井 新 治 郎
昨日、当寺に
お墓参りの許可を
申請したところ
「御田八幡神社」の許可が
必要ですとのこと。
そこで「御田八幡神社」の
社務所の方を通して
私と會の名前を
伝えて頂き、
目出度く
本日参拝することが
出来ました。
ご連絡頂いた
「御田八幡神社」の方、
そして
お忙しいにも拘らず
ご案内をして頂いた
「瑞聖寺」の
スタッフの方々に
心より感謝申し上げます。
謹んで
祓い、鎮魂を
行わせて頂きました。
◆高浜清七郎
幕末、白川伯王家
最後の学頭である
高濱清七郎は
孝明天皇の勅命を受け、
明治維新前夜の京都を離れた。
<孝明天皇>
そのころには白川伯王家は
権威の象徴としての存在でしかなく、
伯家神道の伝統を
実際に継承していたのは
学頭であったため、
激動の時代において
伯家神道の命脈を
守ることを目的として
京都を離れて
身を隠すことを
孝明天皇は
命じたのでした。
そして、
四国や九州の
山里(やまざと)で身を隠して、
幕末の動乱を逃れた
高濱清七郎は、
明治に入ってから有志を募って、
白川の行法の継承を行う
「造化参神神傳教會」、
「和学教授所」を創立した。
それにより、
宮中祭祀としての
伯家神道は、
広く一般へその門戸を
開くことになったのでした。
命日は明治二十六年二月二十八日、
享年八十一歳