鹿児島県薩摩川内市にある「久見崎軍港跡(ぐみざきぐんこうあと)」を慰霊致しました | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

 

「鹿児島中央駅」から
「薩摩川内駅」まで
ローカル線で49分、
新幹線で12分。

 

「薩摩川内駅」から
バスにて36分。

 

因みに
「旧日本海軍『震洋艇

(しんようてい)』特攻基地跡」から
徒歩15分の距離にあります。



◆久見崎軍港跡
(ぐみざきぐんこうあと)

 

<ここより港の方角を拝見>

 



<案内板より>

 

<ちなみに、9年前の案内板です。>

薩摩川内市教育委員会  
 管理者 薩摩川内市

 ここは、藩政時代における
薩摩藩の軍港で、



船手やドックを備えた
造船所があった。



 船手は藩の直轄で、
藩船の造修・管理

・交通運搬の取締り、
唐船に関する業務のほか、



海路による
参勤交代の御座船の

出入りなどを
任務としていた。



 戊辰の役に活躍した春日丸



<幕府との
対立姿勢が次第に強まり、

軍艦購入の必要に
迫られていた薩摩藩は、

長崎のグラバー商会の仲介で、

慶応3(1867)年11月3日、
16万両もの大金を投じて

キャンスー号を購入し、

その軍艦を
「春日丸」と命名した。>は

この久見崎で
造られた

<島津家建造の

軍艦の名称「春日丸」から
とった>ものである。



慶長二年(一五九七)、

秀吉の第二次
朝鮮出兵(慶長の役)にあたり、

島津義弘一万人、

豊久八〇〇人の大船団が
この久見崎を出港し、



秀吉の死によって

翌三年
大方の島津勢は再び

久見崎港に
帰着した模様である。



 なお、造船所の
大工頭をつとめた

樗木(おてき)氏宅に



保存されていた
大量の造船関係文書などは、

藩政時代の造船資料として
極めて重要なもので、



現在

川内歴史資料館が
所蔵している。

平成十二年三月



◆久見崎盆踊(想夫恋:そうふれん)

第二次朝鮮出兵のときに、
久見崎を出航して



生きて帰らなかった
親・兄弟の霊を

 

慰めるため
踊られるようになった。

 

昭和46(1971)5月31日に
県指定無形民俗文化財となり、

 

現在も慶長の役記念碑前で
毎年8月16日に
踊られているとのこと。

 

 元軍港として
歴史のはざまで

様々な先人たちの活躍を
体験してきたであろう
この地に

謹んで
祓い、鎮魂を
行わせて頂きました。