東京都小金市にある「宇垣纏(うがきまとめ)の墓所」を慰霊致しました | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

「新宿駅」より
電車30分で
「武蔵小金井駅」。

 

 

「武蔵小金井駅」から
「小金井リハビリテーション病院前」
までバスで10分。

 

 

「小金井リハビリテーション病院前」から
多磨霊園内へ徒歩にて6分の距離にあります。

 

★宇垣纏の墓所



◆宇垣纏(うがきまとめ)Ⅲ

 

 

1890.2.15(明治23)
~ 1945.8.15(昭和20)

1945(昭和20).8.15早朝、
沖縄積極攻撃
中止の命を受けたが、



宇垣は「彗星」を5機
用意するように



部下の宮崎隆先任参謀、
田中武克航空参謀、

中津留達雄大尉に命じた。



 11機の「彗星」が
用意された。

これに対し宇垣は
「命令は5機」と発言したが、

 

指揮所前には22名の
搭乗員たちが整列しており、



そのことについて
宇垣が問いかけると、

中津留大尉は
「出動可能機全機で同行する。

命令が変更されないなら

命令違反を承知で同行する」
と答えたという。



 正午、玉音放送後、
宇垣は中津留大尉の操縦する
彗星43型に搭乗する。



 彗星43型は2人乗りだが、
遠藤秋章飛曹長が

交代を拒否したため、
宇垣、中津留、遠藤の
3人が乗ることになった。



 第12航空戦隊司令官の
城島高次少将、

幕僚である
先任参謀の宮崎隆、
参謀長の横井俊之から

「死を決せられる
気持ちは理解できるが、

戦後処理や、
国家的な責任の
問題もあるため、

なんとかとりやめる
ことはできないか」などと

翻意を促されたが、



宇垣は「武人としての
死に場所を与えてくれ」
と決意は
揺らぐことはなかった。

 

 山本五十六の
形見の短刀を持ち搭乗。

特攻隊は合計11機23名
(途中3機が不時着、5名生存)で、

沖縄沖に向かって
大分基地から離陸した。



 宇垣機からは
訣別電があり、

続いて

「敵空母見ユ」

「ワレ必中突入ス」を最後に
連絡は途絶えた。

享年55歳。

なお特攻による
米軍に被害はなく、

米軍側からの
宇垣特攻隊は
確認されていない。


<1945年5月14日、沖縄沖、アメリカ海軍

「ヴィックスバーグ」の上空を飛行する日本の特攻機 >

 翌朝、沖縄の
伊平屋島の岩礁に

突っ込んでいる
彗星機を米軍が発見。

機体から3人の遺体を収容。

飛行服を身に付けていない
遺体の所持品に

短刀が発見されたとされる。


<1942年呉海軍工廠竹添氏に贈った宇垣纏中将の書(1942年)>

◆宇垣中将 最期の電文

「過去半歳にわたる
麾下各部隊の奮戦にかかわらず、

驕敵を撃砕し神州護持の
大任を果すこと能わざりしは、

本職不敏の致すところなり。



 本職は皇国無窮と
天航空部隊特攻精神の昂揚を確信し、

部隊隊員が桜花と散りし沖縄に進攻、
皇国武人の本領を発揮し
驕敵米艦に突入撃沈す。


<大分基地跡 祈念碑>

 指揮下各部隊は
本職の意を体し、

来るべき凡ゆる苦難を克服し、
精強なる国軍を再建し、

皇国を万世無窮ならしめよ。
天皇陛下万歳。

昭和二十年八月十五日  
十九二四  機上より」

 

・・・つづく