東京都小金市にある「宇垣纏(うがきまとめ)の墓所」を慰霊致しました | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

「新宿駅」より
電車30分で
「武蔵小金井駅」。

 

 

そこから
「小金井リハビリテーション病院前」
までバスで10分。

 

 

そこから多磨霊園内へ
徒歩にて6分の
距離にあります。

 

★宇垣纏の墓所



◆宇垣纏(うがきまとめ)



1890.2.15(明治23)
~ 1945.8.15(昭和20)

岡山県赤磐郡潟瀬村
(岡山市東区瀬戸町)出身。

父の善蔵は
小学校教師を勤める
傍ら水田農業を営んでいた。

幼少の頃より
隣家の宇垣一成に憧れ
軍人を志したという。


<宇垣一成(うがき かずしげ)日本の陸軍軍人、

政治家。最終階級は陸軍大将。>

1912.7.17(M45)
海軍兵学校卒業(40期)。

'19(T8)海軍砲術学校
高等科学生を次席で修了。

'38.12.15
軍令部第一部長に補される。

日独伊三国同盟締結は
米国を挑発する行為であり、

日米戦争の引き金になる
可能性が高まると

一貫して
反対の立場を取った。

 

<日独伊三国軍事同盟の締結は、日本の戦争への道を加速させた。>

'40親独ムードの盛り上がりから
海軍の反対は
国内政治事情が許さぬと

海軍首脳部が総じて
同盟締結に賛意を示したことにより、

宇垣自身も参戦の
自主性維持(自動参戦の禁止)
を条件に同盟締結に賛成した。



’41.8.1連合艦隊参謀長
(兼第一艦隊参謀長)に就任。
長官は山本五十六。



'42.6.5ミッドウェー海戦では、
第一航空艦隊の主力空母が

次々に被弾炎上し
参謀たちがパニックに陥ったが、

宇垣は冷静に対応して
参加部隊を統率して撤退させた。



敗因を振り返り
「今日の敵は正に飛行機」として
高角砲の射程延長やレーダーの活用、

対潜水艦装備の
拡充が必要と認識した。



戦死者3057人という
負け戦にも関わらず、

艦隊首脳部はお互いに
傷をなめ合い

人事の動きはなく
そのままの職に留まり、

同.8上旬より
ガダルカナル島の戦いが始まる。



その後も南太平洋海戦、
第三次ソロモン海戦、



い号作戦などを指導する。


<い号作戦:日本海軍が1943年(昭和18年)4月7日から15日

にかけてガダルカナル島やニューギニア島に対して空襲を行った作戦>

'43.4.18山本五十六と共に
一式陸上攻撃機2機に分乗して

前線視察のためラバウルから
ブインに向かっている中、



待ち伏せしていた
米軍機に襲撃され、

山本搭乗機
・宇垣搭乗機ともに撃墜された。

山本は戦死、



宇垣も負傷した
(海軍甲事件)。



宇垣は山本の遺骨と共に、
戦艦「武蔵」で内地に帰還。

その後、山本の
形見として短刀を貰う。



陣中録には

「かねて山本長官
身代わりたらん

と覚悟せる身が、
長官を失い、

かえって生還す」
と記してある。


<『戦藻録』(せんそうろく)は、宇垣纏が記した陣中日誌。
副題は「大東亜戦争秘記」。>


・・・つづく