鹿児島県肝属郡内之浦の「海藏(かいぞう)砲台跡」を慰霊させて頂きました | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

「鹿児島中央駅」から
「鴨池港」まで30分。

 

 

「鴨池港」からフェリーで
「垂水港」まで40分。



「垂水港」から
「鹿屋バスターミナル」
までバスにて54分。

 

「鹿屋バスターミナル」から
バスで1時間8分。

 

 

因みに
「小串バス停」より
徒歩35分の距離にあります。



◆海藏(かいぞう)砲台跡



 内之浦の海蔵集落の要塞跡



沖縄戦後の、
本土決戦(決号作戦)は、

南九州が
第一候補に想定され、



昭和十九年
(一九四四年)八月から

志布志湾の両岸に
迎撃のための軍事施設が

構築され始めた。


<国道からいざ進攻致します。>

 米軍の九州上陸の
オリンピック作戦は

昭和二十年十一月一日、


<しばらく歩きますと表示板を発見>

志布志湾・日向灘
・吹上浜への正面作戦から

同時上陸して
南九州を占領し、


<小径を登った先には>

孤立化させ

本土進攻のための、
海・空の基地建設を
目的としていた。


<トーチカのお目見えです>


 このため、

海蔵集落のある
半島一帯は

戦略的価値が高い
と認められ、


<説明版を拝見致します>

志布志湾岸で

最も大きい要塞が
構築されたのである。


<左側に入ってみます>

そのため、

砲台跡六ケ所
(七門の高射砲)


<トーチカの入口を発見>

・弾薬庫一カ所
・探照灯一カ所(飯ケ谷)
の遺跡が残っている。


<立入禁止につき、>

この、

二連式のトーチカ
(機関銃座)の外に、


<入口の隙間から中を拝見>

海蔵岬他二カ所の
計三カ所が現存している。


<正面に戻りまして>

なお当時は、
国道上にもう一カ所

あったことが
確認されていることから


<開口部を確認してみましょう>

トーチカは
全部で四カ所で、

機関銃座は

五つであった
と考えられる。


<面と向かってって向き合いますと一寸緊張しますね。>

 このトーチカは
波見(硯石)近くにも

一カ所あった
といわれている。


<中を覗いてみます>

トーチカの構造


<別の開口部です>

 本体は幅約七・六m 
高さ約三m 奥行約四m

 内部は幅約六・六m 高さ約二m
入口は幅約一m 高さ一・五m


<これもまた別の開口部です>

 軽機関銃(戦前)は最新の九九年式で
昭和十四年制作・口径七・七㎜


<そこからは、先ほどの入口の立札が見えます>

・全長一一九㎝・発射速度は
 一分間に六○○発

・重量一一・四㎏であった。


<かなり草生していますが、全体像です>

 震洋特攻艇基地は、火出ヶ崎
・内之浦浜・小白木浜に
あったという。

 

 参戦することは
なかった施設ですが、

当時この地に携われ
尽力された方々の
ご心境を慮り、

 謹んで
祓い、鎮魂を
行わせて頂きました。