◆チャンスにピンチ!♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<音楽活動に拍車がかかった!>>



10人兄弟の家族に

生まれた彼は・・・。




「男子として

身を立てるタメに

ギターの演奏を学びました。」





そして彼は


現場で年長の歌手から

フィールドハラー、

カントリーラグ、



そして伝統的な歌と

ブルーズ・ポピュラーなどを

学んだのでした。




(そして伝統的な歌とブルーズ・ポピュラーなどを
学んだのでした。)





「それと同時に

労働者としても

働いたのです。」






彼は結婚をして

10代半ばで

視力を失い始めたのでした。





「そして彼は

21歳の頃になるまでには

完全に盲目になります。」





それにもめげずに

彼は音楽活動に拍車がかかります。




「彼はシンガーと

エンターテナーとして


見つけたどんな仕事でも

取り掛かり・・・。」





もちろん

ストリートでも活躍して。




「当然様々なセッションや

録音を経験。」




更には地元支援者を

啓発したのでした。







<<ブラインド・ボーイ・フラー登場2!>>


今回ご紹介するブルーズマンは

引き続き

ブラインド・ボーイ・フラーです。


(今回ご紹介するブルーズマンは引き続き
ブラインド・ボーイ・フラーです。)





彼が28歳の頃

ニューヨークで

レコーディングセッションを

提供されました。




「 O H ! 」

「大都会ニューヨークで

いよいよ本格的に始動でしょうか?」





そうですね。


それを提供したのが

ストアーマネージャーで

タレントスカウトの

肩書きを持つ方で・・・。




「ハイ」



彼のステージネームも

提案したのです。




「それが

ブラインド・ボーイ・フラーですネ!」





(「それがブラインド・ボーイ・フラーですネ!」)





そうです。

そして彼の録音は

120曲を超えていて



いくらかのレーベルで

発表されたそうです。





「 O H ! 」

「彼は売れっ子ですね。」





そうですね。

彼の歌い方はラフでダイレクト。

彼は洗練されていなかったのです。




「ナルホド」




そして歌詞は

感傷的でなく率直に

ー質屋、刑務所、病気、死ー

などのですネ!



ストリートの恵まれない

盲目の黒人のひとりとしての

彼の体験のあらゆる面から



描かれており、

それは露骨で束縛が

なかったそうです。





「それは恵まれない

多くの人たちの

人生の代弁者の意味合いも

あったのでしょうね。」





そうですね。

そして曲の内容ですが、




「ハイ」



彼の歌は、

欲望、愛、嫉妬、

失望、脅威


そしてユーモアを

含んでいたそうです。




(彼の歌は、欲望、愛、嫉妬、失望、脅威
そしてユーモアを含んでいたそうです。)





「聴いている観衆の

心のイタミに沿いつつも

ユーモアを忘れないトコロが

彼、憎(にく)いですね。」





そうですね。

そして彼が31歳の頃です!




「ハイ」

「これは何か

急を告げる展開でしょうか?」





実は、そうです。


彼は写真でみる限りは

大人しいそうに見えますが・・・。




「そうですね。」




実際のトコロは

火のような気性だ

と言われていたのだそうです。




(実際のトコロは火のような気性だ
と言われていたのだそうです。)





「火のような気性?」

「それは瞬間湯沸かし器のような

感じでしょうか?」





恐らくそうでしょう。

その様な気性に任(まか)せて




それは

たまたま虫の居所が

悪かったのカモしれませんが、




彼は妻に対して

ピストルを

撃(う)ち放(はな)って、

その為に投獄されたのでした。




(彼は妻に対してピストルを
撃(う)ち放(はな)って、
その為に投獄されたのでした。)





「 O H ! 」

「ようやくスターダムに

上り詰めようとする

この時にですか!」






そうですね。

その為に彼は

John Hammondの

*"From Spirituals to Swing" コンサート

のメンバーから外されたのでした。





(彼はJohn Hammondの
"From Spirituals to Swing" コンサート
のメンバーから外されたのでした。)





*"From Spirituals to Swing"とは?

1938年12月23日と1939年12月24日に
カーネギーホールで

ジョン・ハモンドによって
公演される2つのコンサートのタイトル。


コンサートに出演者には

Count Basie , Benny Goodman ,
Big Joe Turner and Pete Johnson ,

Helen Humes , Meade Lux Lewis ,
Albert Ammons ,

Mitchell's Christian Singers ,
the Golden Gate Quartet ,

James P. Johnson ,
Big Bill Broonzy そして

Sonny Terryらがいた。






「 O H ! 」


「あのブギウギが10年間流行する

そのキッカケを与えたと言われる

伝説のイベントですね。」





そうです。

それは同時に

彼の代役を務めた



Sonny Terryの

長いフォークミュージックの

キャリアが始まりでも

あったのでした。




(Sonny Terry)




「あるコトを発端として

沈んでゆく者もいれば、


また逆にチャンスを得て

浮かんでゆく者もいる

と言うコトですね。」





そうですね。


そして彼の最後の2つの

レコーディング・セッションは、

33歳の頃に

ニューヨークで行われたそうです。







☆'Get Your Yas Yas Out' BLIND BOY FULLER,
Ragtime Blues Guitar Legend ♪


☆'Untrue Blues' BLIND BOY FULLER,
Blues Guitar Legend (1937) ♪


☆Blind Boy Fuller-
Baby You Gotta Change Your Mind♪


☆Careless Love - BLIND BOY FULLER (1937)
Blues Guitar Legend ♪


☆'Good Feeling Blues' BLIND BOY FULLER (1940)
Blues Guitar Legend ♪










☆ブラインド・ボーイ・フラー

 Blind Boy Fuller


本名:Fulton Allen

 
(1907年7月10日 - 1941年2月13日)


アメリカのブルーズ・ギタリストで

ヴォーカリスト。


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1930年代中期から

1940年代にかけて

高い人気を誇ったブルーズマン。



Piedmont bluesに

分類されるが、

彼のリズミックなギターと

力強く明瞭なヴォーカルは、



同じ地域の

先輩ブルーズマンたちとは

一味違っている。



ギターにはBlind Blake



(Blind Blake)



Blind Willie McTellとの

共通性が強く感じられ、



(Blind Willie McTell)




他のミュージシャンの音源を

よく聴いていたことがうかがえるが、


単なるイミテイションではなく、

曲のまとめ方は

非常に独創的であった。




最もよく売れたのは、

"Piccolo Rag"


("Piccolo Rag")




”Jitterbug Rag ”


(”Jitterbug Rag ”)




'Rag, Mama, Rag'



('Rag, Mama, Rag)


のような

愉快なラグだった。



”Step It Up And Go”



(”Step It Up And Go”)




多くのブルースマンに

カヴァーされた超人気曲。



スライド・ギターも巧みにこなし、

伝統的なバラッドも歌った。

歌詞も面白く、

'What's That Smells Like Fish'



('What's That Smells Like Fish')




'I Want Some Of Your Pie'



('I Want Some Of Your Pie' )



など、

わいせつな題材を持つ

ホウカム曲も残している。



こうしたレパートリーの多彩さが

人気の要因の一つだったことは間違いない。




フラーが33歳で若死にした後、

Brownie McGheeが



(Brownie McGhee)



Blind Boy Fuller No. 2を、


Richard Triceが



(Richard Trice)



Little Boy Fuller

を名乗ってレコーディングした。



フラーの影響力が

いかに大きかったかがわかる。
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<人生とキャリア>



1935年、 Burlington record の

ストアーマネージャーで

タレントスカウトの

James Baxter Long は

American Recording Company (ARC)と

共に、レコーディング・セッションを

彼に確保した。



アレン、デイヴィス

そしてワシントンは

伝統的な "Rag, Mama, Rag"など

ニューヨークで

いくつかのトラックを録音した。




タレントをプロモートするために

ロングは

"Blind Boy Fuller"として

アレンの改名を決めて、


そしてまたワシントンを

Washington Bull City Red

と名づけた。




(Washington Bull City Red)




以後、フラーの制作は120面を超えた。

そして彼の録音は

いくらかのレーベルで発表された。




彼の歌い方はラフでダイレクトだった。


そして歌詞は

感傷的でなく率直に

ー質屋、刑務所、病気、死ーなど



ストリートの恵まれない

盲目の黒人のひとりとしての

彼の体験のあらゆる面から



描かれて

それは露骨で束縛がなかったのだ。







彼は洗練されていなかったが、

フォークシンガーとしての

彼の芸術的手腕は、

実直さと

彼の自己表現の健全性にあった。



彼の歌は、欲望、愛、嫉妬、

失望、脅威そしてユーモアを

含んでいた。






1936年4月に、

フラーは10の

ソロ・パフォーマンスを

録音して、


そしてまた、

ギターリスト・Floyd Council

と一緒に録音した。



(Floyd Council)




次の年、

J. Mayo Williamsのために


(J. Mayo Williams)




オーディションを受けた後に、

彼はDecca label用に

吹き込んだが

ARCに戻ったのだった。




1937年後半に、

彼はSonny Terryと

彼のファースト・レコーディングを

行なった。




1938年に、

彼は火のような

気性だと言われたフラーは


彼の妻をピストルで撃った罪で

刑務所に入れられた。






彼女の足を傷つけたのだった。




それで

その年のNYCでの

John Hammondの

"From Spirituals to Swing" コンサート

(メンバー)から彼は外されたのだ。



("From Spirituals to Swing")




結局フラーが釈放される間、

彼の代わりに



長いフォークミュージックの

キャリアが始まったのは

Sonny Terryだった。



(Sonny Terry)




フラーの最後の2つの

レコーディング・セッションは、


1940年の間に

ニューヨーク市で行われた。


                       (ウィキペディアより抜粋)

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