◆彼のスポンサーは神さま?♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<彼は別の女性を所望した>>





5歳で宣教師を志した彼ですが、




「7歳の時に父親と口論中の

継母の放った灰剤(洗剤?)が

目に入って失明してしまいます。」





そんな彼は

盲目のゴスペルシンガーから

ギターのプレイスタイルを学んで・・・。





「あと独学でスライドギターの

テクニックを磨いて・・・。





彼は街のストリートに

説教と音楽を持ってきたのでした。





(彼は街のストリートに
説教と音楽を持ってきたのでした。)





「そこで音楽を通して

意気投合した彼女と

彼は結ばれもしたのです。」






でも、彼の録音に

参加した女性は

どうやら別人だった様です。





「更に、彼はその彼女に歌い方と

彼の妻になるコトを求めたそうです。」







<<ブラインド・ウィリー・ジョンソンー5>>



今回ご紹介するアーティストは

引き続き

ブラインド・ウィリー・ジョンソンです。



(今回ご紹介するアーティストは
引き続きブラインド・ウィリー・ジョンソンです。)






「ウ~ン!英雄、イエ!

カントリー・ゴスペル・シンガー

色を好むでしょうか?」





そうですね。


それは彼の唸るような!


それこそ!

他を圧倒するような!!



そんな彼の歌い方について

この様なエピソードがあります。




「ハイ」




彼はある日、

税関の前で歌を歌っていました。




☆Blind Willie Johnson-
If I Had My Way I'd Tear
 The Building Down (December 3, 1927)♪






「フムフム」




彼の歌い方は非常~に個性的です。




「そうですね」




それで、彼の歌声を聴いた

警官が危機感を覚えてしまった様で・・・。




「ハイ」

「ちょっと、

きな臭さを感じますが・・・。」





そうです。


その警官は、


彼が暴動を扇動しているのだ

と勘違いしたそうです。




「そうですか!」

「それで・・・。」

「やはり、逮捕されたのでしょうか?」






(「やはり、逮捕されたのでしょうか?」)





その通りです。



その彼は1927年から30年にかけて

コロンビアで30曲を録音しているそうです。




「ハイ」




当時、コロンビアの

最も人気のあるアーティストの

Barbecue Bob と


(Barbecue Bob)




Bessie Smithは


(Bessie Smith)




それぞれ6,000枚

そして9,000~10,000枚

売り上げたそうです。




「ホウ」




それに対して彼は

およそ5,000枚のセールスだったそうです。




「彼、結構 

健闘しているのではないでしょうか?」





そうですね。


そこで1929年の世界恐慌です。




(そこで1929年の世界恐慌です。)





「 O H ! 」

「そうでした。」




売れっ子シンガーの

Barbecue Bob と

Bessie Smithたちはそれぞれ

2000枚と3000枚に落ち込んでいたそうです。




「 O H ! 」

「やはりそうでしたか。」



「それで彼のセールスは

どうだったのでしょうか?」






彼は毎年

およそ5,000枚のレコードを

売り続けたそうです。




「それは・・・。スゴイですネ!」




そうですよね。

どうやら彼の音楽は、



大恐慌の最中も

リスナーに衝撃を与えて


世紀末に

強力な魅力を振るい続けたそうです。




(どうやら彼の音楽は、大恐慌の最中も
リスナーに衝撃を与えて
世紀末に強力な魅力を振るい続けたそうです。)






「 O ~ ~ H H H ! 」




しかし、その流石の彼も

無傷で済むほど

恐慌の影響は甘くなかったなかった様です。




「そうですか」





ハイ。


それでも!

1934年のレコード会社の

レース・カタログで彼は

No2にリスト・アップされていたそうです。




「それって彼が引退してから4年後ですよネ!」


「それは益々スゴイです!」



「何でしょうか。」


「彼!神さまに愛されていますね。」





(「彼!神さまに愛されていますね。」)





「どうもそう言う気がして

ならないのですが・・・。」





そうですね。

彼は、ズッ~と神さまを讃える歌を

ストリートで歌いながら

布教活動をしていたのですからネ!





「神さまの方でも贔屓(ひいき)に

してくれたのカモしれませんネ!」






そうですね。


そして引退した彼は

アンジェリンや子供たちと

一緒に暮らして


ストリート・ミュージシャン

として彼の生計を立てていたそうです。




「なるほど」




彼は時々教会や地域の

宗教的な集会で

定期的に歌ったそうです。







☆Blind Willie Johnson -
John the Revelator ♪


☆Blind Willie Johnson -
 Motherless Children ♪


☆Blind Willie Johnson -
Bye and Bye I'm Goin' to See the King (Lyrics)  ♪


☆Blind Willie Johnson -
 Go to Me With That Land  ♪








☆ブラインド・ウィリー・ジョンソン



本名:Willie Johnson

 
(1897年1月22日 - 1945年9月18日)




彼の父親はお金のために

彼を街角で歌わせるために

しばしば彼を置き去りにした。






言い伝えによると

*Samson and Delilahについての曲



*Samson and Delilahとは?





聖書の「士師記」の物語のひとつ。



ダン族のサムソンは
素手でライオンを倒し、

一度に1000人を倒すほどの
力を持っていたが、
女にだらしなかった。




ペリシテ人の
娘セマダールに求婚する。

サムソンに横恋慕した
セマダールの姉デリラが

2人の仲を邪魔し、
結婚式の席上サムソンを侮辱する。





サムソンは暴れだし、
混乱の中でセマダールと父は死ぬ。





デリラは太守の寵妃となって
太守をそそのかし、

サムソンを捕らえるが、
大暴れして逃げる。





ペリシテ人は
デリラを利用して

サムソンの力の秘密を
探ろうとし、

ついに頭にかみそりを
あててはいけない

という秘密を話してしまう。





デリラはサムソンに
毒酒をのませ、

怪力のもとである
髪の毛を切ってしまう。




力を失ったサムソンは囚われ、
目をくりぬかれ、

ガザの牢で粉をひかされ、
見世物にする。





サムソンは
神に祈って力を取り戻し、

鎖でつながれていた
二本の柱を倒して

建物を倒壊させ、
ペリシテ人を
道連れにして死ぬ。








"If I Had My Way I'd Tear The Building Down"

の強力な解釈を持つ



☆Blind Willie Johnson-
If I Had My Way I'd Tear
 The Building Down (December 3, 1927)♪







ニューオリンズ裁判所での

暴動を始めそうになったために

逮捕されたと言われている。





しかしSamuel Chartersによると



(Samuel Charters)




扇動するための勘違いと

歌詞のタイトルを誤解した

警官によって,



税関の前で裏技を使って

歌を歌っている間に

単に逮捕されたのだった。





実際にTimothy Beal は



(Timothy Beal)





役人は歌の意味を

誤解していないと主張した。


しかし彼の個性的な歌声によって

”昔話が突然!危険極まわらないほど

現実的に聞こえたのなら”





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27年から30年までに

ジョンソンは30曲を

レコーディングした。

1万5千枚を売ったレコードもあったが,


版権はレコード会社のもので,

彼自身は録音時に

謝礼をもらっただけである。


30年代,40年代の

世界的な不況の中,


以後は街角で歌い

チップに頼ってすごした。



(Blind Willie McTell)




一時期はBlind Willie McTellと

旅をともにしていた。
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彼は1927年から30年にかけて

コロンビアで30曲を録音している。




しかし、世界恐慌以降、

レコード購買者が激減し、



何曲かは1932年にヴォカリオンで

再発売されたものの、




その後ジョンソンに

レコーディングの機会が

再び訪れることはなかった。





< 経 歴 >



ある話によると

ジョンソンは彼の情熱的な

サムソンを歌った曲

 "If I Had My Way

 I’d Tear This Building Down" を

ニューオリンズ税関の前で歌っていた。




そして警官がおそらく暴動を

起こそうとしている彼を逮捕した。



そのことが

真実であるか否かは問わず、

歌の彼のヴァージョンのエネルギーと

力強さを証明している。



(Blind Willie Johnson
”Praise God I’m Satisfied”)





Stephen Caltが彼のライナーノート

Praise God I’m Satisfiedで

示している。


Columbia は彼のセールスに

失望したことを示しており

事実、1年間彼のセッションを待ったのだ。





実際、1929年前半には、

ジョンソンはおよそ5,000枚の

レコードを売り上げた。




対照的に

コロンビアの最も人気のあるアーティストの

Barbecue Bob と



(Barbecue Bob )




 Bessie Smithは



(Bessie Smith)




それぞれ6,000枚

そして9,000~10,000枚売り上げた。





しかし、不況が深刻化した。

そして、宗教に対する関心が

急増したので、

B・W・ジョンソンの人気もまた

跳ね上がったのだ。




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Blind Willie Johnsonは

スライドギターの巨匠で、

ラフで、力強いヴォーカルが


罪深い世界に復讐を与える

荒ぶる神について

かなり頻繁に語った曲と

結合しており、


1920年代と1930年代に

一連の不吉な

ゴスペルの録音を制作した。





彼の音楽は、

大恐慌の最中、

リスナーの衝撃を与えたのだ。




彼は宗教的な音楽だけを録音したが、

彼の声の土の感触とギターは


彼の時代に録音された

どの様なカントリー

ブルース・アーティストとも同等だ。



白人黒人同様に

彼の同時代の人々に

衝撃を与えた彼の曲は、


世紀末に

強力な魅力を振るい続けたのだ。
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彼は毎年

およそ5,000枚のレコードを売り続けた。

しかし、

Barbecue Bobのセールスは

2000枚に

そしてSmithは3000枚に落ち込んでいた。





ジョンソンのセッションは、

1930年4月30日にジョージア州

アトランタで行われた。




彼はこの最後の訪問で

10サイドをカットした。


そして 広くコピーされた

"You’ll Need Somebody On Your Bond.”

と共に終了した。



(Blind Willie Johnson -
You'll Need Somebody On Your Bond)




☆Blind Willie Johnson -
You'll Need Somebody On Your Bond♪






大恐慌は結局

彼の売上にも食い込んだ。




しかし、1934年11月に

Bessie Smithの後に

彼のはまだ

コロンビア・レース・カタログの

2番目に大きいリストだったのだ。




彼の人気があり続けたコトは

彼の録音の4枚が1935年に

再リリースされた事実により、


当時のレース記録としては

珍しい出来事だった。





黒人・フォーク・ミュージックの

初期の白人批評家の間でも

ジョンソンの人気は珍しいモノだった。






< 引退後の生活 >



彼は録音のキャリアを終えて、

ウィリーとアンジェリン・ジョンソンは

彼らの子供たちとボーモントに

住み続けていた。




彼はストリート・ミュージシャン

として彼の生計を立てていた。




そして、チャーターズが

1950年代に彼らを訪ねたとき、



町の店主は威厳のある、

きちんと服を着た男性として

まだ彼を覚えていたのだった。



ジョンソンは

Mt. Olive Baptist Church

そして、地域の宗教的な集会で

定期的に歌った。


                    (ウィキペディアより抜粋)

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