◆彼は反骨精神に富(と)んでいた♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

<<音楽シーンを席捲>>



彼は音楽的環境に恵まれていました。




「父親からは

農作業の合間を縫って

ギターを教えてもらいました。」





彼はその父親を通して

ブルーズの名手たちの曲を

積極的に吸収してゆきます。






「まずはBlind Lemon Jefferson



(Blind Lemon Jefferson)




そして Lightnin' Hopkins



( Lightnin' Hopkins)




Arthur Crudup。などなど」



(Arthur Crudup)






さらに彼の家庭は

その家族全員で

ギターを奏でていたのでした。





「それでも南部での生活は

黒人たちにとっては

あまりにも過酷を極めていたのでした。」





ですから彼は早い時期に

そんな南部に見切りをつけて

地方を転々と移ってゆきます。




「彼は生活の糧を得るために

ギター1本で実践を繰り返します。」






10歳代初期(15歳?)には

Sonny Boy Williamson No. 2



(Sonny Boy Williamson No. 2)




Elmore Jamesらと



(Elmore James)




ニューオリンズのクラブで

共演を果たします。





「1949年(20歳)に

親戚を頼ってシカゴに移り住んで・・・。」





ここで彼はMemphis Minnie


(Memphis Minnie)




Big Maceo Merriweather



(Big Maceo Merriweather)




そしてMuddy Watersたちと

共演したのでした。



(Muddy Waters)





「さらに1950年には

自身のバンド

J. B. and his Bayou Boys

を結成して



シカゴの音楽シーンにおいて

たちまち観衆の人気を

さらっていったのでした。」








<<ジェイ・ビー・レノアーつづく!>>



今回ご紹介するブルーズ・マンは

引き続き

ジェイ・ビー・レノアーです。


(今回ご紹介するブルーズ・マンは
引き続きジェイ・ビー・レノアーです。)





そんな人気上昇中の彼を

レコード会社が

放っておくはずがありません。




「それは、そうですね。」





その翌年の1951年には

レコーディングにこぎつけます。



(J. B. Lenoir ”In the evening”)



☆J. B. Lenoir -”In the evening”♪




「 O H ! 」




ところが当時は発売されず、


後に別のレーベルにリースされて

始めてレコードとなったそうです。





「それは彼としては

ショックだったのではないでしょうか?」





そうですね。

彼には・・・。


いや!彼に限らず

ブルーズマンは

往々にして、


社会風刺の効いた

ブルーズを産み出す傾向に

ありますので・・・。




「ハイ」




彼の場合も

"Eisenhower Blues"なる曲を

作ったりしたのですが・・・。


(J. B. Lenoir "Eisenhower Blues")



☆J. B. Lenoir -"Eisenhower Blues"♪




「ハイ」


「アイゼンハワー?」

「コレって

やはり大統領の名前ですよね。」





(「アイゼンハワー?」
「コレってやはり大統領の名前ですよね。」)




そうです。

この曲ですが、

歌詞が大統領を誹謗中傷したとして

発売禁止になったそうです。




「・・・・・。」

「なるほど。真っ暗ですね。」




ですから、

そのため歌詞を変え

発売し直したのが

"Tax Paying Blues"です。



☆J. B. Lenoir - ”Tax paying blues”♪




「歌詞を変えてでも

この曲を世に出したい。」

「彼の曲に対する思い入れと

反骨精神を感じますネ!」






そうですね。


それから1954年には

"Mamma Talk To Your Daughter"が

R&Bチャートで11位になりました。


(J. B. Lenoir ”Mama talk to your daughter”)



☆J. B. Lenoir -
”Mama talk to your daughter”♪





「 O H ! 」




1955年からは

レコード会社を変えて

その1年後の1956年に


”Don't touch my head”をリリース。



☆Don't Touch My Head - J B Lenoir♪




「これって・・・。」

「”頭を触らないでくれ!”ですか?」




そうですね。

この背景には当時の社会が

黒人に対する差別、偏見に

満ちた過酷なモノだったからです。



「ハイ」



それによって

自らの縮(ちぢ)れた髪の毛を

直毛にするコトで

その圧力から少しでも逃れたい!



その様な気持ちからか?

薬品を使って・・・。




それこそ!

大変な苦痛と火傷をする

危険を伴って!



更には

自己のアイデンティティーを

否定してまでも!



白人社会に

受け入れられたかった!





でも・・・。

そんな選択をしてしまった自分を

自ら攻めている内容の様です。




「そうしますと・・・。」


「その薬品で傷んでしまったのは

頭だけではなく・・・。」




そうですね。


どうしようもなくて、

やるせなくて、

自傷行為に陥(おちい)ってしまった、

自身のココロもでしょうね。




「確かに

そんな傷ついた頭(ココロ)については

触ってもらうのも・・・。」


「また、話しに出してもらうのも・・・。」






そうですね。


当人としては

受け入れがたい行為

でしょうからネ!






☆J. B. Lenoir -
The Mountain / How Much More ♪



☆J B LENORE - I'LL DIE TRYIN' - JOB ♪


☆J.B Lenoir - Man Watch Your Woman ♪


☆J.B. Lenoir - Sitting Down Thinking♪







☆ジェイ・ビー・レノアー

J.B. LENOIR


 
( 1929年3月5日~1967年4月29日 )



アメリカ合衆国のブルース・ギタリスト

兼シンガーソングライター。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そんな彼をレコード会社が

放っておくはずがない。


翌1951年には早くも

レコーディングの機会に恵まれる。



と、ここで早くも混乱が。

”In the evening”



(J.B. Lenoir”In the evening”)




”Please don't go away”は、

以前はParrotへの

オーディション用の録音

といわれていたが、



Blues Recordsでは、

チェスへのテスト録音である

と書いてある。



事実は明らかになっていないが、

聞いた印象からいうと

Blues Records説が

有力ではないかと思い、


ここではそれに従うことにする。



Snooky Pryorのハーモニカは

間違いないと思うが、

Sunnyland Slim


(Sunnyland Slim)





Eddie Taylor

ギターというのはどうであろうか。


(Eddie Taylor)




前者はLeroy Carrのカバー。



(Leroy Carr)




後者はウォーキングベースのブギだ。

音は至って悪いが

貴重な録音に間違いない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



1951年にJ.O.B.レコードで初録音し、

その後チェスレコードで録音を始める。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1951年にSunnyland Slim、

Alfred Wallace.、

 Leroy Fosterを伴ってJOBに録音。




(Leroy Foster)




ところが当時は発売されず、


後にチェスにリースされて

始めてレコードとなった。





このセッションで、

彼は早くも”Korea blues”


(J. B. Lenoir”Korea blues”)




という時事ネタを披露しているが、


その裏で純情ブルースも録音しており、

初録音から彼の魅力が全開だ。






意外なのは4曲とも

スローブルーズであるという事。


スロー・ブルーズでも

ドロドロとした雰囲気に

ならないのがこの人の持ち味か。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





朝鮮戦争中の"Korea Blues"は

チェスレコードからの発売で、

名義は'J. B. and his Bayou Boys'だった。


バンドにはピアノの

Sunnyland Slim、

ギターの"Baby Face" Leroy Foster、

ドラムのAlfred Wallaceがいた。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1951年10月には、

Leroy Foster抜きのメンバーでJOBに録音。

めでたくこれが初レコードとなった。


デビュー曲で代表曲の

ひとつでもある「Let's roll」では

お得意のロッキン・ブルースを披露。



(J.B Lenoir ” Let's Roll”)



☆J.B Lenoir - Let's Roll (1952) ♪




Sunnyland Slimのピアノも

いい感じで突っ込んでくる。



51年後半には同じく

JOBに4曲録音しているが、

こちらには正体不明の

ベーシストが参加している。



それにしても

Sunnyland Slimのピアノは、

それだけで彼独特の世界を

作ってしまうものだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




1950年代、J.O.B., Chess、Parrot、

Checkerなどのレーベルで録音。



"Let's Roll",


J. T. Brownをフューチャーした。


(J. T. Brown)




"The Mojo ”



(J. B. Lenoir"The Mojo ”)




そして"Eisenhower Blues"

(発売時名"Tax Paying Blues")などがヒット。



(J. B. Lenoir"Eisenhower Blues")





1950年代にシマウマ模様の衣装と

高い声でショウマンとして知られ、


エレキ・ギターのスタイルと

社会的な歌詞が影響を与えた。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1年以上間をあけて、

1953年にJOBに録音した際には、

J.T.Brownのサックスが加わっている。


おそらくこのスタイルが、

当時の彼らの標準的なスタイル

であったのではないだろうか。



このセッションからは

”The mojo”

”How can I leave”

という名作が生まれている。



(J. B. Lenoir”How can I leave”)




Sunnyland Slimの

ピアノが引っ込んで、


かわりにJ.T.が大活躍!

カッコイイのなんのって!!


Early 50'sの典型的なサウンドであり、

かつ最良のサンプルでもある。





JOBでの録音は、

Sunnyland Slimのバンドを

バックに起用した、

いわば即席録音とも

言えるものであったが、



1954年からは

自己のバンドをバックに

パロットへの録音を始める。




いきなり時事ネタの

”I'm in Korea””Eisenhower blues”

を録音するも、


”Eisenhower blues”の歌詞が

大統領を誹謗中傷したとして

発売禁止になったのは有名な話。




そのため歌詞を変え

発売し直したのが

”Tax paying blues”である。



ピアノのJoe Montgomeryは、

ご存じLittle Brother Montgomeryの弟。



(Little Brother Montgomery)




Sunnyland Slimほどの華はないが、

おいしいところで突っ込んでくる

好サポートだ。



Parrotでの録音は

1年にも満たなかったが、

13曲を立て続けに録音する。



先の”I'm in Korea”

”Eisenhower blues”も勿論だが、

”Mama talk to your daughter”



(J. B. Lenoir”Mama talk to your daughter”)




”Give me one more shot”などの

名曲が数多く生まれている。



ダウンホームなJOB録音に比べ、

アーバン度も200%アップ!!


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



"Mamma Talk To Your Daughter"を

Parrotから1954年に発売し、

R&Bで11位になり、後に多くカバーされた。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、1955年の9月からは

いよいよCheckerへの録音が始まる。



メンバーはParrotの時と同じだが、

ベースに Willie Dixonが加わり、



(Willie Dixon)




当然プロデュースにも

大きく関わってきたと思われる。



この出会いが、

後のレノアーの音楽性と思想の面で、

大きな転機をもたらしていくと

私は考えている。



続く1955年暮れと

思われるセッションでは、

4曲を録音するも、

当時は一曲もレコード化されなかった

うち一曲は未だに未発表のまま)。



☆J.B. LENORE - I LOST MY BABY ♪





まぁ”Everybody wants to know”の様に



☆J.B Lenoir - Everybody Wants To Know ♪





「金持ち連中はよく聞いた方がいいぜ。

俺達貧乏人が腹を空かせたときは、

食い物を盗んでやるだろうからな」

なんて歌詞は発売自粛になって当然か。





このセッションでは、

演奏のパターンは同じなのだが、


チェス独特の深いエコーがかけられ、

それまでの録音とは

ひと味違った雰囲気をかもし出している。





約一年間を置いて、

1956年12月にチェッカーでの

3回目のセッションを行い

”Don't touch my head”

という名曲が生まれる。


☆Don't Touch My Head - J B Lenoir♪






「俺の頭に触らないでくれ」

という歌詞は、

単なるノベルティー・ソングか

と思っていたが、



マルコムXの自伝によると、



Autobiography of Malcolm X:マルコムXの自伝)




髪の毛を延ばしてき

ちんとセットするためには、


「アルカリ液を使い、

大変な苦痛と火傷をする危険を伴って...」

と書いてある。




そして

「白人のようになりたいが為に

その様なことをするなんて、


なんとバカな行為だったのであろうか」

と告白し、黒人同胞に警告を与えている。






レノアーも、

そんな事をする同胞に対して、

皮肉を込めて歌ったのか、

というのは私の考え過ぎか?





このセッションからは

2枚のレコードが発売されたが、

1回のセッションから

2枚のレコードが出されたことは、

Checkerの中でも一番多い。



なるほど完成度の高い曲が多いが、

ブルースに陰りが差してきた

1956年という年を考えると意外な気もする。


(Excerpt from Hiroshi Takahashi:2000/3/nov)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





1950年代後半はCheckerで

 "Don't Dog Your Woman"



"Don't Touch My Head!!!" (1956)を録音、

スタンダードになった。


                   (ウィキペディアより抜粋)

―――――――――――――――――――――――

◆編集後記はこちら
_______________________