◆音楽と共に生きた人生♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

<<ダメージ・イメージ・ダメージ>>




彼は、なかなか実践を与えられずに・・・。





「控え目な性格が

この場合災いしたのかもしれません。」







25歳で小さなレーベルでの

録音をして・・・。







「音楽キャリアが始まりました。」






同時に他のレコード会社への

売り込みにもいきます。







「もう!自分の性格ウンヌンを

言っている場合ではなかったのでしょうか?」







運良く、そこのボスたちに

彼の歌いっぷりが気に入られて・・・。



オールスター・バンドと共に

レコーディングをするコトになりました。







「その曲はコンスタントに

数年にわたりセールスしてゆきます。」









それから彼は、レコード会社を移って・・・。












☆"Please Send Me Someone to Love"♪

(愛するために誰か送って)をリリースします。」








「この曲は、1950年リリースのシングルで

R&B No1ヒットを達成しまし、

10万枚のセールスを記録したとか・・・。」








しかし・・・。







「彼は32歳のときに自動車事故に遭ってしまい。

それによって、

顔に大きなキズを負ってしまったのです。」








これは事故前の彼です。

ウェーブのかかった髪と柔らかな物腰で

スリムな体つき、ハンサムな男性です。







(事故以前の彼です。)







「スムースなヴォーカル・スタイルの

成功したリズム&ブルーズ・アーテイスト

として知られただけの

雰囲気を醸し出していますネ!」









そして自動車事故後に顔の修復に

5ヶ月間を病床で過ごしたそうです。





「パフォーマーとしては

そのマスクはある意味ステイタスですので、

その傷害によるダメージは、

心身共にカ・ナ・リ・の痛手ではないでしょうか?」









そうですね。

そして彼はこの様なマスク(顔)になりました。







(そして彼はこの様なマスク(顔)になりました。)





「失礼ですが、こんなコトって

本当にあるのですね。」







そうですね。

でも、彼は録音を諦めたワケでは

なかったのです。






「なるほど」






しかしレコード会社の売り方としての

彼の価値は、ある意味、ゼロとなりました。




それどこか、彼をそのまま置いておくコトで、

会社自体のカラーが

傷つく恐れも出てきたのではないでしょうか?







「確かに、彼には悪いでしょうが、

その可能性は高いですネ!」







それから彼はレコード会社を変えて

録音をしたのですが、

それ程の成果は上がらず、


彼はその勢いを失っていったそうです。






「彼に復活のチャンスは

やって来るのでしょうか?」











<<パーシー・メイフィールド続く!>>



今回ご紹介するR&Bシンガーは

引き続き

パーシー・メイフィールドです。



(今回ご紹介するR&Bシンガーは
引き続きパーシー・メイフィールドです。








それから60年代に入って

彼は大物エンターテナーの目に止まります。



 

「OH ! 遂に復活の時でしょうか?」






その大物エンターテナーとは?






「その大物エンターテナーとは?」







レイ・チャールズです。





(レイ・チャールズです。)






「O H ! 超大物エンターですね。」






はい。


レイは彼の作詞作曲の能力を買って

契約を交わしたのです。







「ちなみに代表曲は?」








☆”Hit The Road Jack”♪







”Hit The Road Jack”で

1961年R&BチャートNo1を記録しました。







「素晴らしいですね。

これはレイの代表曲ではありませんか!」







そうですね。





「その後の彼の活動はどうだったのですか?」







レイと分かれて、

それからレコード会社を変えて

LPなどをリリースはしましたが、



セールス的には

1974年R$Bチャート84位。

これが彼のスタジオ録音になったそうです。








「何でしょうか?トーンが下がっている様に

思えますが・・。」








彼が”控え目な性格”なのは、

ご存知かと思いますが・・・。







「そうですね。」


「そのために、なかなか実践には至らず

ヤキモキした日々を過ごしていたのではないかと

想像していました。」








その”控え目な性格”が

またまた、逆にアダになって、



彼は彼自身の著作権についての

主張をしてこなかったそうなのです。













「エ~ッ!数は少ないかもしれませんが、

あれだけ著名なヒット曲がありながら・・・。」







そうです。






「それは、生活する上でも

彼に負担を強いる様に思いますが・・・。」






そうです。


彼はもう一度、無名になり、

そうして生活は貧困を窮めたそうです。







「それは、ちょっと彼が社会性の上で

問題があったのか?


それともその様なコトに詳しい

知り合いに出会えなかったのか?」








それについては、

今となっては、すべて推測の域を出ませんネ!







「そうですね。」







ちなみに、彼にはちょとした復活劇が

あったのです。







「O H ! それは凄い。」








80年代の前半に

彼のリバイバルCDが発売されて



新世代の白人ファンの間で、

彼の音楽性が再評価されたのです。






「O H !」






彼はL.A.周辺の主に小さなクラブで

パフォーマンス・ライブに出演していたそうです。






「いいですね。

音楽は共に共感出来る仲間あってコソ!

ですからネ!」








彼が亡くなった時も

仲間と一緒にレコードを

制作する予定だったそうです。






「最後まで

”音楽と共に生きた人生”ですか?」





「最後のひと時まで、

理解あるお仲間と集えて、



そう言った意味では、

彼は幸せな人生を送った

のではないでしょうか?」








そうですね。


ちなみに、彼が亡くなったのは、

64歳の誕生日を迎える

その前日だったそうです。









☆PERCY MAYFIELD I NEED LOVE SO BAD.wmv♪


☆PERCY MAYFIELD CRYING ABOUT MY BABY.wmv ♪


☆Percy Mayfield - This Time You Suffer Too.wmv ♪


☆PERCY MAYFIELD - GETTING YOU OFF MY MIND♪








☆パーシー・メイフィールド PERCY MAYFIELD


(1920年8月12日- 1984年8月11日)





パーシー・メイフィールドは、

"Hit the Road Jack" (ロード・ジャックを打て)

それと

"Please Send Me Someone to Love"

(愛するために誰か送って)の曲で有名な

アメリカン・ソング・ライターで、



スムースなヴォーカル・スタイルの

成功したリズム&ブルーズ・アーテイスト

として知られた。





腕利きソングライターの


感動のブルーズ・バラード


"Please Send Me Someone to Love,"

(愛するために誰か送って)


ひとつの幾十にも重なった宇宙的な嘆き、

は1950年R&B No1ヒットを記録した。






パーシー・メイフィールドは

1952年の重大な自動車事故により

顔を負傷するまで世間を引きつけていた。









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ウェーブのかかった髪と柔らかな物腰で

スリムな、ハンサムな男の彼は

Chitlin 'サーキットで

大きな魅力になっていたが、



暗がりの彼の記録された

*連祷を果たすかのように・・・。




*連祷(れんとう)とは?

「聖職者の唱える祈願に会衆が唱和する形式」





1952年自動車事故は、

彼の目からヘアラインまで走る

巨大きな、*クァジモドのような穴残して、






*クァジモドとは?

「”ノートルダムのせむし男”

(ヴィクトル・ユーゴ作)

のせむしの主人公の名前」







彼のハンサムな顔を傷つけ

(彼は、病院の療養と

彼の顔を戻す複数の手術に

5ヶ月病床で費やした)


そのコトはライフ・パフォーマーとしての

彼のキャリアを実質的に終わらせてしまった。






その5ヶ月間、病院のベッドで横たわり、

”痛みの記憶”へのコーラスであるなら

私は助けるコトが出来ない


・・”それは苦しみの権利を私に服する”


ある種の宇宙、不気味な、

皮肉な冗談として、

彼の耳に鳴り響いた。



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例え彼のツアーが事故の後に

大幅に削減されたとしても


しかし、ブルーズの桂冠詩人は

多産なファッションの中で

書き紡ぐコト、それををヤメなかったのだ。





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それは彼は

"公共の場で見られるにはあまりにも醜い姿"

だったにもかかわらず、


彼は再び録音できるように

物乞いをRupeに書いた

悲痛な手紙を存在するが、


この時点で、彼がArt Rupeと





(Art Rupe)





Specialty Recordsが

彼と道を分けたのは'52年後半だった。






彼はシカゴのチェス用に

”Double Dealin'(2つの取引き)


 と”Are You Out There”(そこに出るの)


をカットした1955年まで

再び録音するコトはなかった。





同じ年、彼はL.A.の小さなCash label用の

他のシングルを製作さた。

-”Look The Whole World Over”(世界を越えて見ろ)

 と”The Bluest Blues”(最も憂鬱なブルーズ)





そしてひとつの

ファイナル・セッションのために

Specialtyに戻ってきたと言うよりは

間抜けなポップチューン

”Diggin' The Moonglow”

(分かった!鮮やかな月明かり)と



” Please Believe Me”

(信じて下さい)だった。






彼は2年間でHome Cooking, Imperial

そして 7 Artsとシングルをカットした。




これらは以前彼の Speciltyでの仕事ほど

良いモノではなく、

彼のキャリアは急速に勢いを失っていったのだった。


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メイフィールドは1954年まで

スペシャリティ用に書いて、録音し続けた。





そして、

それから1955-1956年のChess Records や 

1959年にImperial Records用に録音した。






彼のキャリアは、



 "Strange Things Happening"

(奇妙な出来事)



, "Lost Love"

(失なわれた愛),



 "What a Fool I Was",

 (なんておバカなワタシ)



"Prayin' for Your Return"'

(待っています)




 "Cry Baby",

(クライ・ベイビー)


そして"Big Question"

(ビッグ・クエスチョン)の様な曲

と共に全盛期を迎えた。





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60年代の間、Ray Charlesの

大好きな筆記者として、


彼は天才の宝石としての

"Hit the Road Jack" (ロード・ジャックを打て)

や"At the Club."(クラブにて)

を手渡したのだ。


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1961年、彼の曲"Hit the Road Jack"

(ロード・ジャックを打て!)が

Ray Charlesの目に止まった。






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エンターRay Charlesはソングライターと

レコーディング・アーティストの


両方としてコンタクトをとり、

メイフィールドと契約をした。




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チャールズはメイフィールドの

作詞作曲の才能によって

彼のTangerine Records labelとの

契約が十分感謝に足るコトがわかったのだ。


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ソングライターとしての活動は、

大ヒット”Hit The Road Jack”

すぐに成功して、


チャールズの最もビッグなひとつで

そして最も永続的なヒット、


それはメイフィールドのデモにあった。





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なおRay Charlesの"Hit the Road Jack"

(ロードジャックを打て!)は

1961年R&BチャートNo1を記録した。


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1962年、チャールズは

主にソングライターとしての彼と

Tangerine Records labelとして

契約を交わした。



レコーディング・アーティストとしては、

チャールズの Tangerine/TRC labelsで、

彼は2枚の素晴らしいアルバムを録音した。






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次の5年間、歌手(メイフィールド)は

Brother Ray's band

(特に1964年の"My Jug and I"「ジャグと私」と

その翌年の

 "Give Me Time to Explain"「説明させて」)の



多く人たちと共に容赦のない

粋なツアーのシリーズのひとつを録音した。





そこでメイフィールドは、


 "Hide Nor Hair",

( 皮も髪も・・・)

"At The Club",

(クラブにて)


 "Danger Zone",

(危険地帯)

そして"On the Other Hand, Baby"

(他の手で、ベイビー!)


を書いた。


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☆ The Jug and I(1963)

”Stranger In My Own Hometown”

多分、彼の最も偉大な録音で、





(The Jug and I(1963))







そして最後の本当に

飛びぬけて優れた録音をされた

キングでの公演で

後にエルビスによってカヴァーされたシングルだ。)






☆Elvis Presley - Stranger In My Own Home Town ♪






☆Bought Blues (1966)






(Bought Blues (1966))





素晴らしいこれらの2枚のLP版を制作した中の

マイナー・ヒットは

「The River's Invitation」

(1963年7月R&Bチャート25位)のリメイクだけだった。









レイ・チャールズと別れた後、

パーシー・メイフィールドは

暴徒駆け巡るBrunswick label用に

1枚のLP版をカットした。



☆Walking On A Tightrope






(Walking On A Tightrope)







RCA用に3枚の本当に良いモノが続く。


”Sings Percy Mayfield”,






(”Sings Percy Mayfield”)







”Weakness Is A Thing Called Man”,






(”Weakness Is A Thing Called Man”)







” Blues and Then Some”,







(” Blues and Then Some”)







再びマイナーヒットが1つだけ、

”To Live In The Past”

(1970年3月R&Bチャート43位がやっとだった。)




これらの録音は70年代前半に

すべての重要なラジオを支配した

R&Bのタイプの外にあった。




それは単にニッチではない

メイフィールドの音楽が

レコード会社のラジオと

マーケティング部が発見したのだった。


(良い音楽は、

これら一般の間抜けなタイプが多いのために

十分に見つけやすいとは言えない。)



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メイフィールド自身は70年代に固執した。

70年代前半のRCAとAtlantic用に

マイナーなチャート・アイテムを録音した。







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彼はJohnny Guitar Watson制作の

 Atlantic用にシングルをカットした。


☆”I Don't Want To Be President”




彼の最終的なチャート・エントリー曲で、

1974年に落ちてR$Bチャート84位にたどり着いた。

それはまた彼の最後のスタジオ録音だった。


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メイフィールドは、

ひとつまたはそれ以上の

彼自身の著作権の主張を試みなかった



本当に珍しいベテランの

ブルーズ・アーティストだ。








その後の期間は、

パーシー・メイフィールドをもう一度

無名と貧困に滑り込ませた。




そこには、しかしながら、

彼のキャリアの最終章のひとつがあったのだ。







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80年代前半のいつかパーシー・メイフィルドは

L.A.周辺の主に小さなクラブで

パフォーマンス・ライブに出演していた。




大部分は白人のファンの新しい世代で


Specialty(2枚のキラーCDが支給された。

彼の古典と会社の金庫室から未発表版の

Poet Of The Blues Vol. 1 and Vol. 2)


と U.K. Ace labelを通じて、


両方による彼のSpecialty時代の再販から

彼の音楽性に魅きつけられたのだった。


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80年代前半の

ベイエリア・ブルーズ・ミュージシャン

Mark Naftalinは

イースト・ベイの何処かに住んでいた

パーシーを発見した。




そしていくつかのマリン郡とイースト・ベイの

クラブ周囲のライブ・パフォーマンスのための

バンドをパーシーに提供できたのだった。




出演はまた、

エクセレントな Phillip Walker Blues Band

と共に、1982年 のTimeless studio dateへ

つながっていった。






(PM with Phillip Walker Blues Band)





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彼の最後の日には、彼はギターリストの

Pee Wee Craytonをフューチャーした

バンドの代表をしていた。


そして1984年8月12日の

彼の64回目のバースディに

心臓発作で亡くなったとき

一緒にレコードを制作する計画だった。





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メイフィールドは1984年、

彼の64回目の誕生日の前の日に

心臓発作で亡くなった。



彼は(再び)無名になったのだった。






彼の死後5年後Johnny Adamsは

全編を彼の作品で構成したトリビュート・アルバム

”Walking On A Tightrope”をリリ-スした。






(”Walking On A Tightrope)





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彼の死後 Rhino Handmadeは

彼のTangerine版を再発行した、






(Tangerine版)






彼のSpecialty版は米国と英国で

印刷されたままで、



しかし45年とBrunswickをやめた

彼の色々な人と

RCAのLP版を同じくらいに

年ごとに見つけるのが困難になっている。




(私は自分自身ブランズウィック・アルバムの

新しいコピーを使うことができる。)



しかし、彼の歌は残る。







彼は何百人ものアーティストによって

援護された。


実際、最高のパーシー・メイフィールド・

カバーのCD編集は良い考えだ。








そう言えば、Stranger In My Own Hometown



(最初はElvis In Memphis LPへの衝撃的な

フィナーレだった。







(Elvis In Memphis)






そして交互にテイクは90年代後半の

UK Elvis Blues CDで表現された。)


のエルビス・ヴァージョンのテイク

(成人向け)で、

RCAの3番目に金庫におそらく眠っている。









<私生活>


パーシー・メイフィールドは3回結婚をした。

最初の妻の身元は不明である。


彼の2番目の妻は Willie Mae Atlas Mayfieldだった。

彼の3番目の妻はTina Mayfieldだった。


2番目の妻と、彼には1人の子供、娘パメラ、と

3人の孫がいた。



                            (ウィキペディアより抜粋)



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